殿下は自らの経歴も含んだ資料を示しながらそうおっしゃった。暗殺計画のことを資料に書くはずもないから何の証明にもならないと思ったが、公的な資料の中にそういう記述がなかったことはたしかだ。

 殿下は、「誤解を解くために記事を訂正してください」と重ねておっしゃるので、「わかりました。増刷になったら取り消します」と私も、岩波書店も同意した。

 殿下の口から意外な言葉を聞いたのは、それからしばらくして2度目にお目にかかった時のことだ。三笠宮殿下は古代オリエント史の歴史学者として知られ、1950年代半ばからの紀元節復活(神武天皇即位の日、1966年に建国記念の日として復活した)の動きに対して、一研究者として反対の論陣を張った。私は『天皇・皇室辞典』の「三笠宮崇仁」の項目でこう解説した。

〈戦後の「開かれた皇室」のあり方には賛意を示し、59年の皇太子と正田美智子との結婚にも積極的に支援の姿勢をとった。皇族会議のメンバーとして、各皇族にも協力を要請するなど、象徴天皇制が名実ともに定着するよう主導的な役割を果たしている〉

「下々の者が何を言うか」という
寛仁親王殿下の厳しい視線

 旧体制に戻すような動きを「菊のカーテン」という言葉で批判した殿下のことを、私はリベラルな体質の皇族だと理解していた。

 ところが、目の前にいる殿下はこうおっしゃった。

「昭和34年の(皇太子妃を決める)皇室会議の時に、私は何も知らなかったんだ。会議に出席したら、(美智子さまに関する)資料が積んであった。岸(信介)首相が『ご異存ありませんね』と言ったが、私はその資料をまだ読んでいなかった。それなのに首相は『ご異存ありませんね。これで決定させていただきます』と言う。でも私はその後に資料を読んで、民間から妃を迎える経緯などを初めて知りました」

 私はこの言葉を聞いて、「なぜ今頃、こんなことをおっしゃるのだろうか」と首を傾げた体験もある。

 まだ悠仁さまがお生まれになる前の小泉政権時代、皇位継承問題をめぐり女性天皇・女系天皇の可能性をさぐる議論が盛んになった頃に、三笠宮殿下の長男寛仁親王殿下にもお目にかかる機会があった。