競争価値社会のなかで
違和感を覚える人々
香山 ランニングをしたり、自然に触れたり、呼吸に意識を向けたり、龍光さんは自分のなかの違和感にかなり前から気づいて、それをなんとかしようといろいろ模索してこられたわけですよね。そして、今の日本の経済システムのなかから抜けて、他者、誰かの役に立つための人生へとシフトチェンジしていこうとなさっている。龍光さんのように自分のなかの違和感に気づいて、やっぱりこれはおかしいと思っている人はたくさんいると思います。
また、私は精神科医なので、それ以外の生き方があるとも知らず、ただなんだか苦しいと訴える人も多く見てきています。資本主義的な、新自由主義的な競争価値社会のなかで、息苦しいと感じている人たちは本当にたくさんいますよね。
小野 この違和感は何だろうと、そういった疑問を持っている人は少なくないかもしれませんね。
香山 そう。まさにこの違和感は何なんだろう、なんで私は生きづらいんだろうと悩み、これは私の努力が足りないからじゃないか、頭が悪いからじゃないかと自己責任寄りに考えて、苦しんでいる人も多いんですね。今の社会にはびこる自分本位主義の流れのなかで、そこに合わなくなってきている人がどんどんあふれ出しているのが現状です。
その先どうするかは、その人それぞれだと思うんですよね。別に得度しなくても、ボランティアでもいいかもしれないし、やっぱりここで耐えて生きていくという生き方もあると思う。だけど、まずそこに気づくということが、すごく大事だなと思うんです。龍光さんのように、たくさんのものを一気に手放すという選択が皆できるかはともかくとして、自分の苦しみの原因がどこから来るのか気づくことで、持たないことがかえって心の平和につながるという道筋も見えてくる気がしますね。
小野 おっしゃるとおりで、持っていたものを捨てたからこそ、こだわり、とらわれていた自分に気づけるというのは、たしかにありました。髪の毛なんかまさにそのひとつです。大切なのは、苦しみの原因は、実は自分のとらわれが生み出しているということではないでしょうか。これはブッダの教えのコアでもあるのですが。「捨てられない」と強く感じるものこそ、とらわれを生み出し、それが苦しみにつながる。
ですので、心の平安を得るには、何もかも一気に手放したり捨てたりすることが重要なのではなく、「これは手放せない」と感じるものほど、距離を取ることが重要なのではと思うのです。それも、捨てるか否か、ゼロかイチかという選択だけではなく、完全に離れずとも、苦しみをもたらさない程度に、ほどよい距離感を保つ選択もあるかもしれない。