健熙は1965年に早大商学部卒業後、米ジョージ・ワシントン大学ビジネススクールで経営学修士(MBA)を取得して1966年に韓国へと帰国する。まずはサムスン・グループが立ち上げたばかりのテレビ局に入社して財閥人の一歩を踏み出した。1973年にオイルショックが起きると、韓国の経済発展にはハイテク産業を育成するしかないと確信。サムスン・グループの出資先でもあった「韓国半導体」の株式の残りの半分を個人の資金で1974年に買い取り「三星半導体」と社名を変え、自ら半導体事業経営を学び始める。同社はそれまで、細々と単体トランジスタなどの電子部品を作っていたが経営難にあえいでいた。
反対する父を説得し
サムスンを半導体事業へと導く
1978年にサムスン・グループの副会長に任命されてからも健熙は、半導体事業の重要性を父親に訴え続ける。
もともとテクノロジー産業の重要性は認識していた秉哲は、自ら直轄のタスクフォースを作って事業の将来性や、サムスン・グループに最適な参入方法を探らせる。自分でも頻繁に日本を訪れ総合電機メーカー幹部の話を聞き、米国にも赴き状況を見聞する。
ライバルだったラッキー金星(ラッキー・ゴールドスター、後のLG)財閥や現代財閥も半導体参入に動き出していたこともあり、とうとう1983年秉哲は、満を持して半導体の中でもDRAMに照準を定め、参入ののろしを上げたのだ(注3)。
猛スピードで工場建設にまい進し、1984年5月には64KDRAM(編集部注/1チップあたり64キロビットの容量を持つDRAMのこと)の量産工場を竣工。同年秋から量産出荷を米欧中心に始める。
全責任を負ってサムスン財閥のDRAM事業育成を仕切ったのは「言い出しっぺ」の健熙だった。DRAM参入直後から、健熙は自ら技術獲得に奔走する一方、要所々々で的確な経営判断を下す。
最初は社内に人材も技術もないことを十分認識し、徹底的に社外資源を活用する。
1983年7月にシリコンバレーに設計開発センターを開設し、半導体の「本場」で最新の技術動向を把握するとともに、米国の大学や半導体関連企業に散らばっていた韓国人技術者・研究者をスカウトする拠点とした。同時並行で技術ライセンス元を探し、結局マイクロン・テクノロジーから技術供与を受ける。