優秀な外部の人間を登用し
1992年秋には日本を抜き去る
サムスン財閥は以前からグループ生え抜き人材を大学新卒中心に採用し、その人材を管理職、要職に就ける内部育成型の人事・組織運営を確立していたが、半導体では思い切って外部人材を登用したのだ。もちろん博士を含む優秀な人材を米国で採用するために、シリコンバレーのハイテク企業に負けない報酬水準を用意。サムスン電子の標準的な給与体系を度外視して人を集めた(注4)。
加えて日本や米国の半導体メーカーの技術者を非常勤の「技術顧問」として招き、製造や研究開発の現場で実地に韓国人技術者の育成を進めた。健熙自らが日本を訪れ、週末に日本の半導体メーカーの技術者を秘密裏に韓国の自宅に連れて行き、サムスンの技術者への技術指導を仰いだと、後に明かしている。
サムスンが64KDRAMを量産出荷したのは、日本勢より4年遅れの1984年秋だった。その後、256K、1M、4Mと、世代ごとに差を詰め、とうとう1992年秋には16MDRAMの量産を日本勢と同時期に開始する。そしてサムスンは16MDRAMでDRAMの世界シェアトップの地位に台頭する。
1990年代になると独自の素子構造などの技術開発力も持ち始めており、次の64MDRAMは他社から直接供与された技術は使わず、日本勢に先駆けて量産試作品の出荷を1992年に始める。つまり、かつての日本勢同様、キャッチアップ戦略で参入から10年以内にトップレベルに追い付き、追い越したのだ。
これらの技術力蓄積は、80年代の人材獲得と外部人材からのノウハウ移転を重視した健熙の采配の成果といえるだろう。
リスクを覚悟した先に生まれた
サムスンの勝利の方程式とは?
そして、もう1つ、李健熙の経営采配で日本勢を圧倒したのが設備投資だ。
健熙はDRAMにおける規模の経済から来るコスト競争力の重要性を最初から見抜いていた。当時の王者だった日本勢に勝つために、日本のDRAMメーカーよりはるかに大きい設備投資を辛抱強く続けた。