“日本フットボールの父”が母校を訪れて言葉を失った、立教大「キリスト教大弾圧」の爪痕戦時下で「キリスト教主義教育」の看板を下ろし、「皇国の道」による教育を強いられた立教大 Photo:PIXTA

強制送還からGHQの一員で立教再建
「日本のフットボールの父」が落胆した光景

 終戦間もない1945年10月20日、連合国軍総司令部(GHQ)の係官が、東京・池袋の立教大学を訪れた。アメリカ生まれで、名前はポール・ラッシュ。戦前、立教大学教授として経済学や英語を教えていた。

 3年半ぶりの“帰国”だった。視察に訪れたキャンパスの主要施設は奇跡的に空襲を免れていたものの、建物や設備は荒廃。チャペルも祭壇や椅子がないあわれな姿になっていた。ラッシュは深く落胆した。

 ラッシュが日本に来たのは1925年。国際キリスト教青年会(YMCA)から派遣された。その後、立教の教授になり日本が気に入る。アメリカンフットボールの普及にも尽力し、後に「日本フットボールの父」と呼ばれた。

 日米開戦が近づくと、米国人は全員帰国したが、ラッシュは最後まで残った。開戦後に抑留され、42年6月に強制送還された。終戦でGHQの一員として日本に戻ってきたのだ。

 立教大学は戦時中、軍部や文部省の圧力を受けて「キリスト教主義教育」という看板を下ろしていた。ラッシュは視察の4日後、「信教の自由侵害だ」とする覚書を作成、総長ら11人を解職して体制を一新。キリスト教主義教育の方針も回復させた。

 ラッシュは当時の吉田茂首相とも近く、日本の民主化を推進し、青少年のスポーツ振興にも力を入れた。全国中等学校優勝野球大会(現在は全国高等学校野球選手権大会)の再開を働きかけ、46年8月に実現すると、開会式で参加校の主将に自らボールを手渡した。ボールの1つはその後、山梨・清里にあるポール・ラッシュ記念館に展示されている。

 立教大学は東京六大学で唯一のキリスト教系の学校だ。戦時中、キリスト教系の学校は、二重の意味で厳しい環境にあった。イエスを神の子、救い主と信じ、聖書を信仰の源泉とするキリスト教の思想は、天皇崇拝と矛盾しかねない。欧米列強との関係が深いこともあって、軍部や文部省から特別視され、他大学にはない困難を迫られた。キリスト教主義教育を断念し、「皇国の道」による教育を強いられた。

 その大きな契機になったのが、1936年の「チャペル事件」だ。ラッシュが日本を離れざるを得なくなったのもこの事件が伏線になった。