地下鉄計画が
実現しなかったワケ

 広島電鉄は1960年代、存続の危機に直面した。高度成長でマイカーの普及が進むにつれて道路のいたるところで慢性的渋滞が発生し、広島県公安委員会は「手っ取り早い解決策」として、1963年に軌道内への自動車の乗り入れを認めてしまう。

 この結果、路面電車やバスは定時運行が不可能になり、1967年頃から乗客が急激に減少した。旅客収入の減少、輸送コストの増大で広島電鉄の経営が悪化すると、時代遅れの路面電車を廃止し、バス転換すべきとの主張が台頭した。実際、全国の大都市では1960年代末から1970年代初頭にかけて次々と廃止されている。

 広島電鉄は、大阪や神戸などの路面電車が廃止となった他都市から大型車両を購入し、ワンマン運転を開始するなど経営の合理化に努めるとともに、広島県警察に働きかけを強めたことで、1971年12月に軌道敷内への車両乗り入れが再度、禁止された。

 路面電車が復権した半面、地下鉄計画は停滞した。広島市に地下鉄がないのは、「三角州という地理条件から地下トンネルの建設が不可能だから」と説明されることもある。工費が増大するため採算性が低下するというのは確かだが、不可能というのは正しくない。

 例えば、『広島新交通システム建設誌』に掲載された懇談会案の「地下鉄縦断図」を見ると、地表から最も深いのは宮島線方面、可部線方面が合流する十日町駅の約20mで、その他の区間は10~15m程度。同時代に開業した東京の東西線、千代田線などと大差ない。

 運輸省鉄道監督局の担当者は、1972年の業界紙『JREA(15巻10号)』で、「広島の地質は典型的な扇状地(ママ)で砂層及び砂レキ層があり、地下水位も高い。加えて河川が多く東西方向のルートは河川横断を避けられない」としながらも、土留め・止水を強化し、河川は橋または潜函工法(地上で建設したトンネルを地中に沈めていく工法)で横断すると記している。

 また、計画立案に関わった交通計画の大家・八十島義之助氏は後年、「広島は地盤が軟弱で地下水が出て技術的に難しいのでは――という話があったが、問題はなさそうです」と述べている。

 結論から述べると地下鉄が実現しなかったのは、他路線への乗り入れをクリアできなかったからだ。前述の懇談会、HATSの両案はいずれも相互直通運転を前提としていたが、これは広島都市圏の拡大が背景にある。