こうしてみると、三部社長体制が5年目に入っている中で、外部環境が大きく変化しており、ホンダが正念場を迎えていることは明らかだ。29年の八重洲本社移転時は「ポスト三部」に経営体制が移行していることはほぼ確実であり、それまでにホンダの方向性をしっかりと定める必要がある。
ホンダ創業期を振り返ってみると、「やんちゃだが、チャレンジ精神旺盛な技術屋」である本田氏と、それを支える「資金繰りで苦闘して銀行と交渉しながら、販売力を形成した営業屋」である藤沢氏のコンビネーションで、東京進出の地、八重洲で奮闘したことを筆者は取材でよく聞かされた。
ホンダの代名詞ともいえる役員室での「ワイガヤ」や、それを生み出す「大部屋役員室制度」も、八重洲時代に培われたものだ。筆者は、当時の八重洲ビルで取材した後、近くの旅館でホンダ役員と麻雀(マージャン)の卓を囲んだことがあるが、「ここはホンダ営研(当時あったホンダの営業支援部隊)の連中が藤沢の伯父貴と、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を交わした梁山泊だったんだ」と語っていたことを思い出す。
かつて青山ビルの建設中は、東京・原宿に本社を構えたこともあった。若者の街の原宿から青山に移って40年。「ヤンチャな気風は薄れて、変に大人になった」とも評されるホンダが、原点である八重洲の地に回帰し初心に戻ることで、この難局を乗り越えて、再び「世界のホンダ」として飛躍することを願う。
(佃モビリティ総研代表 佃 義夫)