当初は、「がんを治す」を目標に医師を目指したが、自分よりも頭のいい人間が山ほどいる環境の中で「俺みたいなの、がんの治療に行ったってダメだな。たいして人の役には立てない」と思い直し、痛みの研究へと方向転換した。亡くなった家族が皆、激痛に苦しみながら死んでいったことを思い出したからだ。
「当時はまだ緩和ケアというのはなかったので、まずは人間が死ぬとはどういうことかを知ろうとカルチャーセンターへ通って『死生学』を学びました。そこで出合ったのが末期がんの患者さんの講演をもとに書かれた『にっこり笑って死ねますか』という本です。
それを読んで、人間いつかは死ぬんだと、そのときに笑って死ねるようにしないといけないなと。笑って死ぬためには少なくとも肉体的苦痛を取り除いてあげなくては無理だろうと考え、痛み研究を専門にすると決めました」
「こんなのでいいのかな?」
見よう見まねのがん緩和ケア
大学を卒業した1987年は、『緩和ケア元年』だった。
前年の1986年にWHO(世界保健機構)から、世界初となる緩和ケアの診療ガイドラインが出され、翻訳版が出た1987年から日本の大学でも、見よう見まねのがん緩和ケアが始まった。
「僕も研修医ながら、緩和ケアに取り組みました。でもね、見よう見まねですから、大学の先生も僕もレベルは一緒。慢性痛は神経ブロック一択で、痛みを本当に治療するわけじゃない。患者さんは毎週痛がって、神経ブロックを受けに来る。こんなんでいいのかなと思って米国に留学し、世界で初めて設立された痛み治療センター『ワシントン州立大学ペインセンター』で学びました」
最初の1年間は麻酔科で働き、英語がある程度できるようになったところで2年目からはペインセンターに配属され、集学的痛み治療を学んだ。
「日本とはまるで違いました。診察では、最終的に医者だけでなく、臨床心理士と理学療法士と看護師とかが同じように患者さんを診て、全員で会議をして、治療方針を決めます。その後、チームとして患者さんと家族を呼んで具体的な治療方針を説明する。