中学時代の恩師の言葉が
サッカー人生の羅針盤に

 鋼と形容できるメンタルは、数々の挫折を含めて波瀾万丈に富んだサッカー人生にも影響されている。愛媛県東予市(現・西条市)で生まれ育った長友は、小学校6年生のときに地元の愛媛FC(現J2)のセレクションを受けるも不合格。高校進学時にはプロを夢見て、福岡県の強豪・東福岡へ越境入学した。

 東福岡では2年生からボランチのレギュラーを射止めたが、全国的には無名だった関係で卒業時にプロからのオファーは届かなかった。大学でサッカーを続けようにもスポーツ推薦を得られず、指定校推薦で明治大学政治経済学部に入学した。しかし、1年生当時を苦笑しながら振り返る。

「僕が19歳のときは、試合が行われているスタンドで太鼓を叩いていましたからね」

 大学入学後に椎間板ヘルニアを患った長友はリハビリを積みながら、幼いころに和太鼓を習った経験を生かして、試合に臨むサッカー部のために太鼓でエールを送り、抜群のリズム感でいつしかスタンド名物になった。そして復帰後に告げられたサイドバックへの転向がターニングポイントになった。

 一気に頭角を現した長友は、明治大学が臨んだFC東京との練習試合で高い評価を受けて、大学4年へ進級する2008年にサッカー部を退部。在学したままプロになり、日本代表に抜擢され、2年後のワールドカップ南アフリカ大会に出場。世界に見そめられる形で大会後にはイタリアへ羽ばたいた。

 長友自身が「成り上がり」と表現したサクセスストーリーを支えた金言がある。中学時代のサッカー部顧問で、いまも恩師と慕う井上博教諭から授けられた「自分の意思次第で道は変わる」は、逆境を大好物にしながら、時にはあえてプレッシャーを背負ったサッカー人生の羅針盤と化してきた。

 そしていま、さらなる批判を招きかねない「伝説を残す」が長友の不退転の意思となっている。

 誰に何を言われようと、あるいは何が起ころうと進むべき道、目指すべき目標、サッカーを離れた一般社会でも指針になりそうなマインド設定は絶対に変えない。日本人選手初となる5大会連続のワールドカップ出場から逆算しながら、39歳になった長友は一心不乱に前進していく。