「他人」「環境」「社会」「病気」など
悪者の存在や隠れ蓑をつくってしまう
この他にも、防衛機制には「投影」「象徴化」といったものがありますが、私たちはその時々に合わせていろいろな防衛機制を使用して、自分を不快な感情から守っています。
しかし、他責思考の強い人は、防衛機制のやり方に応用性がなく、「合理化」一辺倒であることが、まず根底としてあるのではないかと考えています。
「根底」と書いたのは、たとえ「合理化」だけであっても、「私にはまだあの洋服は似合わない」と考える例のように、他人を傷つけたり、不快な思いをさせたり、責任を擦り付けたりしなければ、「合理化」一辺倒であっても問題ではないと考えるからです。
問題なのは、他責思考の人は、「合理化」の概念を使用する根拠として、常に「他人や環境が悪い」「社会が悪い」「病気が悪い」などと悪者の存在や隠れ蓑をつくってしまうことです。
そして特徴的なのが、責任を求める対象が1点になりがちなことです。そうなると、「自分の不快は、常にあなたが悪いのだ」と悪者にされた人を苦しめることになってしまいます。
ここでもう少し「防衛機制」について解説します。
防衛機制には、「適切なもの」と「そうでないもの」があります。ただ、明確に分けられるというものでもなく、適切なものであっても、使い方によっては不適切になってしまうこともあります。
これが防衛機制の難しさです。
たとえば、「昇華」は、否定的な感情を肯定的に捉え直して、社会的に意義のある活動に変えることですので、基本的には適切な排除の仕方と言えます。
「行為のクセ」と「思考のクセ」には
大きな違いがある
しかし、「自分のツラかった体験を他の人には経験してほしくない」という善意から動画をつくって発信していたものの、その動画に非賛同的なコメントをしてきた人を執拗に攻撃するようになってしまうのであれば、それは不適切になってしまいます。
また、気乗りがしない約束において「抑圧」が働いて、スケジュール帳に記載しなかったためにすっぽかしてしまうこと自体は良くないことではあるものの、自己を守るために無意識でやってしまったことですので、同情には値します。
しかし、その後、「約束した相手にきちんと謝罪をしなかった」とすれば、それは適切であるとは言えなくなります。
もう1点、防衛機制の最も難しいところだと考えられる部分が、防衛機制は「無意識に」働くという点です。
そもそもクセとは、無意識に行なわれる言動です。それは、「他責グセ」も同じです。
ただ、「行為のクセ」と「思考のクセ」には、大きな違いがあります。「行為のクセ」は、その行為をした際に、他者がすぐに指摘できる、言えるという点で本人に気づきを与えたり、修正につなげやすいものです。







