たとえば、「男女平等でない社会は良くない」ということも正論ではあり、「女性にだけ電車に専用車両があるのは男女平等の精神に反する。
公平性という観点から見ると、それは間違っているのではないか」と言われたら、誰も反論できないでしょう。
正論をふりかざせば、それ以上の反論ができなくなります。
他責思考がクセになってしまうのは、こうした道徳的には正論であることを繰り返すことで、他人を黙らせて優越感に浸ったりマウントを取れることに気づき、そうやってマウントを取り続けていくことで、自分を守っていくという、ある種のテクニックを体得したからだと考えられます。
変化を嫌う
――「他責グセ」のある人の特徴(4)
変化をせずに現状維持を保ち続ける生活は、刺激はありませんが、今以上傷つく可能性が少ないことは確かです。
そのため、過剰に自分を保護する他責グセの人にとっては「変化を選択しない」という生活が1つの安心材料となります。
しかし、自分が変わらなくても、自分を取り巻く社会は変わっていきます。特に現代社会は、変化のスピードが速くなっています。「自分は他人といっさいかかわりを持たずに生きていきたい」と願っても、人は1人では生きていけない社会性を持った生き物ですから、それは不可能なことです。
したがって、変化を嫌って部屋に引きこもっていても、生きていく中で周囲の変化を感じないで生活することは不可能ですし、多少なりとも他人とかかわれば、それに伴う喜怒哀楽といった感情の波も生じます。
まわりが変化して進んでいくことを、ただ見ていることしかできないという状態は、不安や焦りといったストレスを生みます。
そのストレスをうまく発散するためには、自主的に動いていくしか対処法はありません。自主的な動きと変化をしないことは相容れないのです。
「変化は嫌だけど、そのままだと不安や焦りというストレスが溜まる」というやり場のない感情は、自傷か他害に向かいます。
自傷行為も、他責を含む他害行為も、一過性のストレスを発散することはできますが、根本的な改善とはなりません。







