国家の体制や科学への姿勢の違い写真はイメージです Photo:PIXTA

第2次世界大戦下、ドイツと日本もまた原子爆弾の開発を試みていた。だが、両国はなぜアメリカの後塵を拝することになったのか。ウラン濃縮装置を開発しなかったドイツ、臨界質量すら把握できなかった日本――。研究の遅れの裏には、資源不足やデータ欠如だけでなく、国家の体制や科学への姿勢の違いがあった。※本稿は、物理学者の山田克哉『原子爆弾〈新装改訂版〉核分裂の発見から、マンハッタン計画、投下まで』(講談社ブルーバックス)の一部を抜粋・編集したものです。

ドイツで核分裂研究を行った
ヴェルナー・ハイゼンベルク

 軍事利用を視野に入れたドイツでの核分裂研究は、1939年に勃発した第2次世界大戦の直前あたりから開始されている。ハイゼンベルク(編集部注/ヴェルナー・カール・ハイゼンベルク―Werner Karl Heisenberg。1901年12月5日~1976年2月1日。ドイツの物理学者)もまた、アメリカの物理学会誌「フィジカル・レビュー」に掲載された「ボーア=ホイーラー核分裂理論」を参照していた。

 この論文には、どんな量のエネルギーを持った中性子(編集部注/原子核を構成する無電荷の粒子)を吸収しても、ウラン235の原子核に分裂が起こりうること、原子核に入ってくる中性子のエネルギーが小さいほど(スピードが遅いほど)原子核は分裂を起こしやすいことなどが記されている。

 したがって、ハイゼンベルクもコロンビア大学のフェルミ(編集部注/エンリコ・フェルミ―Enrico Fermi。1901年9月29日~1954年11月28日。イタリア、ローマ出身の物理学者。アメリカの原爆開発「マンハッタン計画」で中心的な役割を果たした)やシラード(編集部注/レオ・シラード―Leo Szilard。1898年2月11日~1964年5月30日。ハンガリー生まれの物理学者。フェルミの助手的な立場でマンハッタン計画に参加)と同様に、天然ウランと減速材(編集部注/核分裂後に放出される中性子の速度を下げる役割を果たすもの)を使った核分裂連鎖反応持続装置の設計を考えるようになっていた。