これも、セクハラだけではなく他にパワハラやアカハラ(アカデミック・ハラスメント)などの報告があった男性教授で、大学側が聞き取りを進めていたとのことであるから、ちゃん付けが単体で悪とされたのではない。

 広島市立大学の件は大学側が自主的に行った措置なので法律とは関係なく、冒頭に紹介した判決とは成立の背景が異なるが、いずれにせよ「ちゃん付け」について今一度改めて考える、もっと言うなら令和に生きる者として価値観をしかとアップデートする局面に来ていることは間違いなさそうである。

相手をなぜ「ちゃん付け」しているか?
「他意」の度合いが重要

 ではこれまで、男性上司や年上男性が女性を「ちゃん付け」で呼ぶのは、どのような時だったか。まず挙げられるのは、男性側の親しみの情であろうか。

 呼び方をきっかけにして親しさを増し、他人行儀な壁がなくなるほど仕事も円滑で朗らかになり相手の緊張・負担を減らすこともできる、という業務上の配慮もあったかもしれない。

 その「ちゃん付け」に他意がどれくらい込められていたか、ここが重要である。純愛か不純かに関わらず女性社員と男女の関係になりたいという願いが「他意」の最大値であるとして、そこまでは願わずとも、異性間のやり取りにまつわる特有のワクワクをちゃん付けを通して味わおうとしているなら、それも一応他意に該当する。

 ただ、人間が動物である以上異性とのワクワクを希求するのは本能的に仕方のないことであって、悟りでも開かぬ限りそこの感情をゼロにするのは難しい。しかし人間には理性も備わっているので、感情はあっても表に出さずに秘することはできるわけで、要はどれくらい表に出すかの程度問題なのである。

 他意を相手に不快に思われないラインに留めることができれば「ちゃん付け」には罪がない――というのが現時点以前の大方の認識であろうか。

 異性とワクワクしたい気持ちをものすごく表に出して、つまりものすごく他意を込めて「ちゃん付け」をすればおそらくそれはねっとりとしていて、その手触りが不快な感触を伴って女性に伝わる。