成瀬自身が幼い頃の思い出として「街には文字があふれている。しかし話すのは苦手で、うまく言葉をつなげられなかった」と自分史に綴ったように、彼女は昔からコミュニティに溶け込める人間ではなかった。だからこそ独自の道を進むしかなかった。しかしそれが、結果として多くの人を魅了する。

 これほどまでに、世のコミュ障自認者の救いになるキャラクターがいるだろうか?

成瀬はコミュ障の「希望の星」

 令和の社会で売れるビジネス書は、コミュニケーション力向上の指南書である。言語化力を高める本もその派生だ。現代社会ではとてつもなく多くの人が、コミュ力を上げたくて必死になっている。彼らの魂がそれを望んだからではない。社会が要請したからだ。学校や職場が、コミュ力の高い人でなければ価値がないと圧をかけてくるからだ。

「コミュ力の本でも読んで、あなたは変わるべきだ。人生のステージを上げるべきだ」。そんなことを1年365日、ずっと聞かされる。

 我々は、そういうことに、もうウンザリなのだ。

 コミュ力に難ありと自認する人たちにとって、成瀬はある意味で同類である。自分と比べ物にならないくらいの超絶優等生ではあるが、根っこの部分では「こっちサイド」の人間。自分たちと同じ属性・同じ欠落を持っている、しかし自分たちよりずっと上位互換の人間。言ってみれば同胞の星。彼女の欠落を理解できる我々だからこそ、応援という形で支えてやれる。否、我々が支えてやらねばならない――。

 成瀬の快進撃は、もしかしたらどこか別の世界線では獲得できるかもしれなかった、自分という人間の栄光かもしれない。少なくとも、自分の属性は報われている。成瀬を支えて応援することは、自分が救われることにも等しい。

 現実世界の推し活が担っている機能に、どことなく重なっている。

ローカル閉じという最強のデトックス

 成瀬ほどの頭脳と行動力があれば、学生起業して社会から注目を浴びることも、ネットを使って世界にパフォーマンスを発信して異能ぶりを知らしめることも、それで名声を得ることも、なんならそれを換金することも、十分に可能であろう。しかし、作中の成瀬はそういうことをしない。何であれ「実利的な意味で価値のあること」にカウントされる行為は、成瀬の行動からは巧妙に排除されている。

 成瀬は世界に打って出ない。従来型の立身出世系の物語なら、もっとわかりやすく成り上がっていくだろうが、そういう展開にはならない。打ち明けると、筆者は当初、1作目の『成瀬は天下を取りにいく』というタイトルから女性版サラリーマン金太郎のような成り上がり出世物語を想像したが、読んでみたらまったく違っていた。