Photo:Clive Mason/gettyimages
「彼は私の息子ですが、全く別の人間です。彼には彼固有の人生があります。だから、彼に私が経験したような訓練をさせようとは思いません」
「ひとつだけ引き継いでほしいと思うことがあります。マスタードライバーです。マスタードライバーはブランドの味付けを決める存在。味付けは時代によって変わるでしょう。トヨタの味、レクサスの味、GR(GAZOO Racing)の味など、その時々で決めていく必要があります。だから、いつか彼がこの部分を引き継いでくれることを願っています」
前者は父親としての言葉であり、後者は章男氏なりのトヨタ創業家四代目に贈る言葉だと、とらえることができるだろう。
さて、最初のお題に戻ろう。トヨタ自動車にとって豊田家とは一体どんな存在か。それは、他のオーナー企業で類を見ない、特殊な存在といえる。社長と創業家の関係性を振り返ってみよう。
トヨタグループの創始者で自動織機を発明したのが豊田佐吉であり、長男の喜一郎氏が1937年にトヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)を設立した。草創期は苦闘の連続で、戦後に倒産寸前となり喜一郎氏は社長を引責辞任。代わって「自分の城は自分で守れ」の名言で有名な大番頭・石田退三氏が業績を復活させた。
石田氏が喜一郎氏に社長復帰を説得した矢先、喜一郎氏は52年に亡くなってしまう。その後、豊田家の「分家筋」である豊田英二氏(佐吉氏の甥、喜一郎氏のいとこ)を中心に、豊田家への“大政奉還”を果たす。日本初の乗用車専門工場「元町工場」建設に踏み切ったのが当時の取締役で33歳だった豊田章一郎氏(喜一郎氏の長男)だった。
「トヨタ中興の祖」と評される豊田英二氏の後を受けて82年、新生トヨタ自動車が発足。社長には、豊田家嫡流である章一郎氏が就任した。章一郎氏はトヨタのグローバル化を推進し、名実共に日本を代表する企業へと確立させた。
章一郎氏の後を受けて92年に社長就任したのが、弟の達郎氏だった。国際派の達郎氏への期待は大きかったが、病に倒れて95年に社長を退く。
折しも日本経済はバブル崩壊、円高の急伸でトヨタの業績も厳しくなっていた。そこで急遽、創業家ではなくトヨタのプロパー社員から社長になったのが奥田碩氏である。







