日産エンジニアが入社した時には、ハードはほぼでき上がっていた
F:いくらエキスパートでも、その時点で既にクルマができて試験走行までしていたのでは、どうにも手の出しようがない。それではバッテリーをどこに積むとか、モーターをどう置くとか、そうした根本的な車両開発に田川さんが携わったわけではないと。
東:違いますね。そこは既にできていました。田川さんはラッコを開発した人というより、日本へ導入するためのプロジェクトリーダーです。最終的な商品化の段階で、細かい仕様や装備を見直したり、日本でどういう商品にするかを詰めたりしたのです。一番重要だったのは価格ですね。日本での価格設定。価格を含めた、日本市場へ出すための“最後の仕上げ”を担当しています。
F:ネットで出回っている情報とはえらく話が違いますね。日産でサクラを造った技術者がBYDへ移り、日産の技術を持ち込んでラッコを造った、くらいの話になっています。
開発陣のほとんどは、若い中国人
東:そうなんです。さらには「日本の技術者をたくさん使っているから、あれだけマトモなクルマができたんだ」という書き込みも結構ありますが、実際にそんなことはありません。
私が認識しているのは、バッテリー関係で日本人のエンジニアが1人いる程度です。私自身、何度も中国へ出張していますが、日本人技術者が大勢いるところなんて見たことがありません。
もちろんBYDには世界中の自動車メーカーから来た人がいます。責任者クラスにも、元アルファロメオとか元アウディとか、いろいろなメーカーの出身者がいますが、日本人だけで日本向けのクルマを開発するようなチームがあるわけではありません。ラッコを造った開発陣も、ほとんどが中国人です。しかもみんな若い。中には日本の大学への留学経験者もいましたが、大半は中国の大学を出て、中国しか知らない人たちです。
F:それでもこれほど完成度の高い軽を造ってしまった。では彼らは、どうやって日本の軽を理解したのでしょう。







