日本を創った57人の経営者写真:国立国会図書館/AI Generated/ChatGPT

いま私たちが当たり前だと思っている日本の企業の姿や、働き方、組織の常識は、最初にそれを形作った設計者や実装者がいる。『日本を創った57人の経営者』の本稿では、野村證券の創業者、野村徳七を取り上げる。株式投資に徹底的な調査と論理を持ち込み、そうした投資にまつわる情報を顧客へ開放することで、個人が投資しやすい環境を整えた人物だ。証券業を「ばくち」から「職業」へ、一部の情報通の「特権」から「インフラ」へと変えることに、野村は生涯を注いだ。(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

数字と事実だけを基準とする
「そろばん主義」の誕生

 1913年(大正2)年5月、東京で一冊の経済雑誌が生まれました。卓袱台一脚、本箱一個、電灯もない部屋で、石山賢吉という男が創刊したのが「経済雑誌ダイヤモンド」です。

 創刊号に、石山は「本誌の主義」と題してこう書いています。

「本誌の主義は算盤(そろばん)の二字を以て尽きます。本誌は是とするも非とするも総て算盤に拠り、算盤を離れて何物も無い。本誌は、算盤を以て如何なる有価証券に投資するの有利にして又不利なるかを研究し、此方面の人々に向かって一種の転ばぬ先の杖を提供します」

 情実を排し、数字と事実だけを判断の基準とする。そして、その情報を広く大衆に広めていく──。この「そろばん主義」は、現在のダイヤモンド編集部にも息づいています。データを重視し、さまざまなランキングを打ち出す姿勢は、このDNAによるものといってよいでしょう。

 実はこの石山と同じ時代、まったく別の場所で、同じ結論にたどり着いていた男がいます。野村證券の創業者、野村徳七です。

 野村が生まれた明治11年(1878)年は、東京株式取引所・大阪株式取引所が開設された年でもあります。大阪の両替商の長男として日本の証券市場とともに生まれ、市場とともに育ち、市場の質を変えることに使命を燃やした人生でした。

「株屋」と蔑まれるのは
人格が低いからである

 野村が証券業を本格的に始めた明治末期、証券業者はまだばくち打ちと同じとみられ、世間の人々に、株屋、相場師と呼ばれてさげすまれていたといいます。

 なぜか。野村は著書『蔦葛(つたかつら)』で、こう断言しています。

「取り扱う業者の人格が低いからである」

 さらに「一面に放資知識が極めて幼稚なるがためである。目前に現われつつある日々の強弱関係や、大手筋の動くままに操られて、売買に浮き身を費やすから、世間は株屋と言い、相場師などというのである」と。

 当時の証券取引は、ごく一部のインサイダーや相場師だけが勝てる構造になっており、普通の人間が「勘」で参加すれば負けるのが落ちでした。

 野村はこの構造を変えることに事業の意義を見いだします。

 明治39(1906)年、野村は「大阪毎日新聞」の経済部記者だった橋本喜作をスカウトし、他に先駆けて「調査部」を設立して独自の調査活動を開始しました。新聞記者という“調査の専門家”を証券会社に引き込むという発想自体、当時としては革命的です。「調査を企業活動の中核に置く」という思想は、今日の証券アナリストや企業リサーチの原点といえます。

 石山が雑誌というメディアで「そろばん主義」を掲げたのと同じく、野村は勘の相場から科学の投資へという変革を、身をていして実行に移します。

 当時、日露戦争の勝利で、景気拡大への期待から株価が高騰する中、野村はポーツマス講話条約の内容が決して国民の期待に沿わない厳しいものであることに目を付けます。「この高値は実態に伴っていない」と冷静に分析すると、持ち株を全て処分しただけでなく、銀行からカネを借りられるだけ借りて大規模な「売り(空売り)」を敢行しました。このとき、鴻池銀行(現三菱UFJ銀行の前身の一つ)から、同行の資本金の3分の1に当たる融資を引き出したというからとんでもない大勝負です。

 その後、市場が急落したことで野村は大勝利を収め、大阪の証券街・北浜にいて強固な地盤を築き上げました。

 その際に語った言葉が残っています。

「私が命を賭けて考えたことだから、決して間違うはずはない」(『野村得庵伝』、野村合名会社、1940年)。

 勘ではなく、徹底的な調査と論理を積み上げ、命を懸けて考える。この姿勢こそ、野村が証券業に持ち込んだ最大の変革でした。

 そして、野村の真骨頂はここから先にあります。相場のプロにとって、調査で得た情報は本来、他人には決して渡さない「武器」のはずです。ところが野村は、その情報を独占せず、開放するという、当時の常識では考えられない決断に出るのです。次ページでは、石山賢吉との相似形を成すその決断の背景と、共に投資の「公衆化」を実現した、ある大物経済人との“接点”についても解説します。