日本を創った57人の経営者Photo:AI Generated/ChatGPT

いま私たちが当たり前だと思っている日本の企業の姿や、働き方、組織の常識は、最初にそれを形作った設計者や実装者がいる。『日本を創った57人の経営者』の本稿では、戦後の焼け跡の中から、盟友・井深大と共にソニー(当時は東京通信工業)を創業した盛田昭夫を取り上げる。安かろう悪かろうだった世界における日本製品のイメージを変えただけでなく、日本企業を「世界基準」へ引きずり出した経営者だった。(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

 1979年に発売されたソニーの初代ウォークマンは3万3000円しました。当時、筆者は13歳。中学1年生のお小遣いではとても手が出せる代物ではありませんでした。

「SONY」のロゴが入った本体と、オレンジ色のスポンジで覆われたヘッドホン――。ソニーは単なる「電化製品のメーカー」ではなく、スマートで洗練された空気感をまとう存在であり、所有しているだけで「流行の先端にいること」を証明する記号(アイコン)でもありました。

 もっとも、“高根の花”であるソニーに対し、私を含め大多数の若者たちは、他社が出した安い類似品で妥協するしかありませんでした。その中で、当時ソニーの子会社だったアイワは最もリアルな最適解であり、「これは決して妥協ではなく、センスの良い選択なんだ」というプライドを支えてくれる存在でした。ソニーと同等の尖った技術を、手頃な価格で届けてくれるヒーローだったのです。アイワの「カセットボーイ」という名前に郷愁を覚える同世代は多いでしょう。

 いきなり脱線しましたが、今回は日本が世界に誇るクールなブランド「ソニー」の話です。

成功体験も財閥の看板も持たない
戦後生まれのスタートアップ

 戦後の高度経済成長期における日本企業を語るとき、私たちはどうしても「欧米に追い付け追い越せ」という物語に終始しがちです。しかし、日本企業が初めて世界を意識したのは、戦後からではありません。

 前回紹介した御木本幸吉(真珠王・御木本幸吉は“発明家”ではなかった!才能を見抜き、伝説を演出し、産地ごと観光地にした「規格外の経営者」)は、26年の米フィラデルフィア万国博覧会で養殖真珠1万2760個を用いた五重塔を出品して大注目を浴び、翌年にはトーマス・エジソンに会い、「真珠の養殖を完成させたことは世界の驚異だ」と絶賛されました。また、同じく過去回で紹介した森村市左衛門(「メイドインジャパン神話」の起点・森村市左衛門は、明治期に“ばか正直”で世界と勝負した)は、官主導で富国を目指す明治政府の助けを借りず、独力で海を渡り、信用と商習慣を武器に欧米市場へ正面から向き合っていました。

 御木本は世界を相手に巧みなマーケティング戦略を成功させ、森村は日本人が「誠実な商人」として国際市場で通用することを証明してみせました(ぜひ過去回をお読みください)。

 しかし、その流れは太平洋戦争によって断ち切られます。日本は国際社会から孤立し、さらには敗戦によって経済的にも精神的にも「内向き」にならざるを得なくなります。

 戦後の日本企業が直面したのは、単なる復興ではありませんでした。日本という国、そして日本企業のアイデンティティーを、もう一度組み直すことが求められていたのです。

 その戦いを正面から引き受けた戦後企業がありました。盛田昭夫らが創業したソニーです。

 盛田が立つ出発点は、極めて明確でした。敗戦によって焼け野原となった日本が、再び世界の中で生きていくためには、日本人が「真の国際人」にならなければならない――というものです。

 当時のソニーは、戦前の成功体験も財閥の看板も持ち合わせない、戦後生まれのスタートアップに過ぎませんでした。だからこそ盛田には、「従来の日本のやり方」に縛られる理由が最初から存在しなかったのです。

 次ページからは、共同創業者である盟友・井深大との役割分担や、SONYブランドが世界市場で信頼を勝ち取り、「安かろう悪かろう」だった日本製のイメージをいかにして塗り替えていったかを掘り下げていきます。ソニー、いや日本というブランドを守るために毅然たる態度で「巨大な商談」を断ったり、終身雇用制、年功序列型賃金といった日本的経営と戦ってきた彼の姿は、SONYブランドと同じく「クール」そのものでした。