日本を創った57人の経営者写真:国立国会図書館/AI Generated/ChatGPT

いま私たちが当たり前だと思っている日本の企業の姿や、働き方、組織の常識は、最初にそれを形作った設計者や実装者がいる。『日本を創った57人の経営者』の本稿では、わずか10年で三井や三菱といった財閥に匹敵するような巨大コングロマリット「日本産業(日産)コンツェルン」を形成した鮎川義介を取り上げる。一般大衆である株主に広く利益を還元する「公衆持ち株」という、極めて民主的な仕組みを取り入れた人物でもある。(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

「終生、金持ちにはならない」
という信条を貫いた経営者

 ビジネス誌の記者・編集者として、これまで数千人に及ぶ経営者や企業人にインタビューしてきました。

 その経験を通じて、起業家は四つに類型化できると考えています。

1.めちゃくちゃ稼ぎたいという願望が動機の「金銭的成功型」
2.他人に管理されない自由な意思決定や自律性を求める「自由と独立型」
3.自分のアイデアを世に問いたいという情熱に基づく「情熱・アイデア実現型」
4.社会問題解決や意義あるビジネスを創って人の役に立ちたい「社会貢献型」

 もちろん、どれかにきっちりと当てはまるわけではなく、ハイブリッドだったりするのがほとんどで、「ああ、この人は3の成分高めの2だな」とか、「完全に1で3要素がないな」とか、「4を強調しているけど、実は1じゃね?」みたいに分析していました。

 もっとも、誰もがお金には興味があるのは当然です。企業経営にはお金が必要だし、利益がないと継続した投資ができないわけで、「稼ぎたい」というモチベーションがない経営者は皆無です。違うとしたら、会社としてもうけたいのか、個人として富を得たいのかです。

 米テスラの創業者、イーロン・マスク氏の個人資産は9020億ドルだそうで、9月末の株価と為替レートでいうと単純換算で約135兆円に及びます。米国のIT大手であるGAFAの創業者は軒並み資産数十兆円レベルの大富豪だし、日本でも柳井正氏や孫正義氏などが「兆円」レベルの資産を持つ経営者として知られています。

 そんな中、今回は「終生、金持ちにはならない」という信条を貫いた経営者の話です。その代わり、わずか10年で三井や三菱といった財閥に匹敵するような巨大コングロマリットを形成しました。

巨大企業群「日産コンツェルン」
エリートが選んだ日給48銭の労働

 日産自動車、日立製作所、日本鉱業(現ENEOS・JX金属)、日本水産(現ニッスイ)――。

 これら一見ばらばらな企業群が、実は戦前に一つの「持ち株会社」の傘下に収まっていたことをご存じでしょうか。

 ピーク時には141社、12万人の従業員を擁した巨大企業群「日本産業コンツェルン(日産財閥)」です。

 三井・三菱といった伝統的な財閥が、一族の閉鎖的な資本で王国を築いていた時代。そこに「大衆の金(公衆持ち株)」というまったく新しい武器を手に、わずか10年で肩を並べる規模へと企業群を成長させた風雲児がいました。鮎川義介です。

 日産自動車の創業者でもありますが、豊田佐吉や本田宗一郎に比べると、その名は決して広く知られてはいません。日産では「創業家一族」が経営に関与しなかったことも、その一因でしょう。

 1880年、旧長州藩の山口県に生まれた鮎川は、名門・旧制山口高校を経て東京帝国大学を卒業します。母は明治の元勲・井上馨のめいという名門の出身でした。

 しかし、その輝かしい経歴に反して鮎川は、「金持ちは人類全体に悪影響を与える。俺は終生、金持ちにはならない」という誓いを立て、それを貫きました。

 その決意の理由を、「ダイヤモンド」1964年1月1日号で鮎川が自ら語っています。

「私はいまから五十数年前、学校を出て実社会に入るに際し、私なりの人生設計を立てたが、その中で“終生富豪となることなしに、天職に精進しよう”と誓った。
 私の姉妹や弟は、不思議にも、そろいもそろって金持ちの家と縁を持った。みんな金持ちのところへ行っている。私は彼らから金持ちの裏話というか、いやらしい話を、散々聞かされた。
 それで私は考えた。金持ちになってはいかん。金持ちになると自分を堕落させ、そればかりか家庭を乱し、人類全体に好ましからぬ悪影響を与える。だから、終生、金持ちにはなるまいと覚悟を決めたわけだ」

 その決意通り、鮎川は東京帝国大学の機械科を卒業したエリートエンジニアでありながら、自らの出自を隠し、芝浦製作所(現東芝)で日給48銭の職工としてキャリアをスタートさせます。当時、大学卒の技術者なら月給はその数倍が当たり前でしたが、小卒、中卒の工員たちと共に現場で汗を流すのです。常識外れの選択です。

 後に鮎川は、こう振り返っています。

 職工としての4年間のおかげで、一生得をした。労働者から不満を向けられても、「自分も同じ仕事をしてきた」と胸を張って言える――。

 さらに単身渡米し、現地の鋳物工場で現場労働に従事。日本と米国で計4年、肉体労働を重ねながら最先端の鋳物の技術を身に付けます。帰国後、その経験を基に創業したのが「戸畑鋳物」でした。

 次ページでは、この後、鮎川がいかにして巨大企業グループを形成していったかを明らかにしていきます。100年前に編み出されたその手法は、「投資信託」と「企業再生ファンド」を掛け合わせたようなものでした。しかも、富を少数者に集中させるのでなく、一般大衆である株主に広く利益を還元する「公衆持ち株」という、極めて民主的な仕組みも取り入れました。