平安時代以降、内裏はたびたび火災に遭い、天皇が別の邸宅に住む「里内裏」が常態化していました。やがて、現在の京都御所につながる土御門東洞院殿が内裏として定着し、大内裏はまったく使われなくなったのです。

 そのため、秀吉が聚楽第を建設したころには、旧大内裏の跡地に民家や寺院などは存在していたものの、宮廷の主要施設はすでに失われていました。秀吉は住民を移転させ、わずか1年半ほどで、壮大な聚楽第を完成させたとされています。

城郭としての規模と防御機能

 聚楽第は、名前こそ貴族の邸宅を思わせますが、実態は、天守や櫓、堀を備えた城郭といっていい建物でした。

 正確な規模は確定していませんが、発掘調査などから、東西約600メートル、南北約700メートルほどの範囲に及んでいたと考えられています。のちに関白となった豊臣秀次が受け継いだ際には、さらに拡張された可能性も指摘されています。

『兼見卿記』には、堀の幅が約36メートル、深さが約5.4メートルと記されていますし、発掘調査でも、西の丸の堀が幅約43メートル、深さ約10メートルに達していたことが確認されています。聚楽第が単なる住居ではなく、軍事的な機能も備えた巨大な城郭だったことがうかがえます。

 しかし、秀吉の狙いは、自分のために立派な城を造ることだけではありませんでした。

 天下人が京都に拠点を置けば、政治を支える家臣や諸大名も、その周辺に集まる必要があります。こうして聚楽第の周囲には、黒田官兵衛や宇喜多家、加藤清正ら、有力大名の屋敷も次々と設けられました。

京都にのこる加藤清正の屋敷跡。聚楽城の東方にあったという Photo:PIXTA京都にのこる加藤清正の屋敷跡。聚楽城の東方にあったという Photo:PIXTA 拡大画像表示

 現在の京都には、如水町(にょすいちょう)や主計町(かずえちょう)など、当時の武将や、その官職に由来するとされる町名が、たくさん残っています。そうした町名をたどって、戦国時代の京都に大名たちの屋敷が並んでいた様子を思い描くのも、楽しいのではないでしょうか。