「天正地割」で町並みを作り替える
秀吉が進めた都市改造は、武家屋敷の建設にとどまりません。その一つが「天正地割(てんしょうじわり)」と呼ばれる町割りの変更です。
京都は、碁盤の目状の都市としてよく知られていますが、秀吉の時代には、既存の街区をさらに分割するような道路整備が進められました。従来の正方形に近い街区に小路を通し、短冊形の細長い区画を設けることで、土地を効率的に利用できるようにしたのです。
それまでの、街区の内部に空き地が生まれやすい構造を改め、道路に面する土地を増やせば、住宅や店舗を建てる場所も確保しやすくなります。
京都の町家に多く見られる、間口が狭く奥行きの深い「うなぎの寝床」も、こうした町割りの変化が背景の一つになったと考えられています。
もちろん、現在の京都の町並みは長い歴史の積み重ねによって形成されたものですが、秀吉の都市改造も、その重要な一部分を担っていたといえるでしょう。
現在の京都市内を空撮 Photo:PIXTA 拡大画像表示
御所の造営と御土居の建設
秀吉は、自らの拠点だけでなく、天皇の住まいである御所の整備にも力を注ぎました。
天正17年(1589)には、御所の大規模な造営に着手し、朝廷の権威にふさわしい立派な施設を整えました。
秀吉は、関白として、天皇から与えられる官位や権威を自らの政治的正統性につなげていました。だからこそ、その権威の源である、天皇が住む御所を整備することにも、大きな意味があったのです。
さらに天正19年(1591)、秀吉は京都の町を囲む「御土居(おどい)」の建設を開始しました。御土居とは、土を盛り上げて築いた土塁と、その周囲の堀からなる大規模な建造物です。京都の町を取り囲むように築かれ、その一部は現在も遺構として残っています。
御土居の目的については、京都の防衛、洪水対策、洛中と洛外の区別など、さまざまな説がありますが、なかでも注目されるのが、都市の内と外を明確に分け、京都の町を再編しようとした、という見方です。当時の京都には、農地や寺院なども広く存在し、都市としての範囲が必ずしも明確ではありませんでした。
御土居によって洛中と洛外を区別することは、都市の管理や土地利用を整理するうえでも、意味があったと考えられます。
また、秀吉は京都市中の寺院を移転させ、現在の寺町通り周辺などに集める政策も進めました。これも、寺社の配置を整理し、都市空間を再編する、京都大改造の重要な一環だったのです。







