聚楽第の消滅、それでも残った秀吉の足跡
天正19年(1591)末、秀吉は関白の座を豊臣秀次に譲り、聚楽第も秀次に引き継がれました。一方、秀吉は自身の隠居所として、伏見城の建設を進めました。
しかし文禄4年(1595)、秀次事件が起こります。秀次は高野山で切腹し、聚楽第も秀吉の命令によって徹底的に破却されました。こうして聚楽第は、10年にも満たない短い歴史に幕を下ろします。
しかし、秀吉の京都大改造が残したものは、聚楽第という城郭だけではありません。
大名屋敷の配置、町割りの変更、御所の造営、寺院の移転、そして御土居の建設。これらは、京都を天下人の政治を支える都市へと作り替えるための、大規模な取り組みだったのです。
聚楽第そのものは失われてしまいました。しかし、町名や道路、寺院の配置、御土居の遺構などには、秀吉の時代に進められた都市改造の痕跡が残っています。
いま私たちが歩く京都の町も、平安時代以来の歴史だけでなく、戦国時代の天下人が描いた都市の姿をも受け継いでいるのです。
秀吉の妹・あさひ(手前)と家康(奥) (C)NHK 拡大画像表示
秀吉に謁見する前日、家康を秀長が接待する (C)NHK 拡大画像表示
「豊臣兄弟!」第41回より (C)NHK 拡大画像表示
「豊臣兄弟!」第41回より (C)NHK 拡大画像表示
「豊臣兄弟!」第41回より (C)NHK 拡大画像表示
次ページの動画では、本記事の内容のほか、「洛中・洛外って今でいうと京都のどこなの?」などについてお話ししています。







