F・フィッツジェラルド原作の『華麗なるギャツビー』は米国で5回も映画化された。少し前に、レオナルド・ディカプリオ版(2013年)とロバート・レッドフォード版(1974年)を続けて見てみた。

 大恐慌直前の酔狂状態のニューヨーク近郊が舞台だ。主人公のギャツビーは、貧困が原因で富裕層の女性との結婚を諦めるが、一獲千金後に彼女を取り戻しに来る。しかし、米国の上流階級は「思慮浅い人々」であり、怪しげだが誠実なギャツビーの思いは結局通じず、悲劇が起きる。

 アメリカンドリームの悲哀を描いた原作だが、米国人はこの話が好きだ。多くの高校で教材として読まれ、村上春樹が指摘するように、近年はフィッツジェラルドの評価がヘミングウェーを上回っている。40年前のレッドフォード版に比べ、ディカプリオ版に登場する人々の方が、より胡散臭く、よりバブリーに描かれているのは、時代の表れだろうか。

 08年の米大統領選挙の際、「オハイオの配管工ジョー」が話題になったことがある。彼は社員2人という超零細企業の配管工だったが、オバマ候補が掲げた富裕層向け増税案は困ると強く反対した。いずれ自分は富豪になると固く信じていたからである(『ポジティブ病の国、アメリカ』)。