18歳で旅行業界に身を投じた岩崎安利は、20歳で独立。その後アイデアと持ち前の行動力で、不可能といわれることを次々と可能にしてきた。業界が大不況下にある今、こんどは『高付加価値路線』という秘策を胸に、成長戦略を練り上げている。

何も知らないスキー旅行で実績
20歳で独立へ

岩崎安利
ビッグホリデー 岩崎安利社長

 岩崎が旅行業と関わったのは、旅行が好きだったという理由からではなく、まったくの偶然だった。岩崎が高校生のときに父親が51歳の若さで亡くなった。このため、すぐに働かなくてはならなかったのだが、当時、学歴も年齢も関係なく働ける仕事といえば、工場の工員かセールスマンしかなかった。

 そんなとき、東光観光という会社が人材を募集していた。岩崎は「バス会社だ」と思って面接を受け、そのまま入社した。しかしそこはバス会社ではなく、旅行会社だった。なにしろその頃の岩崎は、旅行会社といえば日本交通公社しかないと思っていた程。その程度の知識で旅行業界に飛び込むことになったのだ。

 東光観光の給料は、固定給ゼロのフルコミッション制だった。会社の慰安旅行や学校の修学旅行などを獲得すると、粗利の4割が収入となった。山手線内の定期券を渡され、飛び込み営業に回るのだが、会社からは1日30枚の名刺をもらってくるよう指示されていた。

 会社は10時になると目覚まし時計が鳴り、会社から外へ出るよう促される。他の営業マンを見ていると、三々五々、喫茶店に行ったり、映画を観に行ったりしている。「こんなことをやっていたら人間がダメになる」。そう思った岩崎は、真面目に飛び込み営業に取り組んだ。太っていた岩崎はダブルのスーツを着ていたため、40代くらいに見えた。これは信用という面で助かったという。

 しかし、岩崎が入社した10月、すでに慰安旅行の営業時期は終わっていた。そこで目をつけたのが流行し始めたばかりのスキー旅行だった。入社して1週間後、早川電気(現シャープ)の総務に飛び込み、担当者と話し込んだ。そして「実は私、スキーのことはよくわかりません。教えてください」と頼み込んだ。担当者は、鬼怒川の奥にある鶏頂山スキー場がいいと教えてくれた。

 「それではそこで、一度スキー旅行をしてみませんか」と言うと、「仕方がないなあ」と担当者は苦笑しつつ、やってくれることになった。バス6台のスキー旅行の獲得だった。以後、岩崎はスキーやスケート旅行を主力に売り込んでいく。

 スキー旅行に自信を得たことから、岩崎は2年で独立、東京・板橋区大山に1坪半の場所を借り、「北日本ツーリスト・ビューロー」を設立した。冬はスキー・スケート旅行、春と秋は慰安旅行を売り歩いた。