ブラームスは1833年(日本では天保の改革の時期)5月7日に、ハンザ都市同盟の中心地ハンブルグの貧民窟に生まれます。父親ヤーコプは、音楽家への夢を追い求める自由人で、まともな職に就けずにいました。そんな父でしたが、いち早く息子ブラームスの才能に気がつき、出来得る限りの音楽教育を授けるのです。

 ブラームスは10歳にして小さな演奏会でモーツァルトやベートーヴェンを弾いていました。それでも、貧しい生活であることに変わりはなく、14歳の頃には、港町ハンブルグの船員相手の酒場のピアノ弾きとして日銭を稼ぎ、家計を助けるという生活が始まりました。

 若きブラームスは、地元ハンブルグの作曲家兼音楽教師エドゥアルト・マルクスゼンに師事し、ピアノの腕を磨き作曲も始めます。地元では知られる存在となっていきますが、大きな展望はありません。依然として実家の家計を助けるためにアルバイトでピアノを弾いたり、作編曲を行ったりして過ごす日々…。才能が浪費されていました。

 しかし、ブラームス19歳の春。一つの出会いがあります。

突然訪れた旅の始まり

 19世紀半ば、ヨーロッパで少々名の知られたエドゥアルト・レメーニというハンガリー出身のヴァイオリニストがいました。折からのパリ2月革命とその反動で、ハンガリー革命に参加したレメーニは、祖国を追われ米国に渡りました。ジプシー風の演奏で評判になりましたが、人気は長続きしませんでした。そして1852年、レメーニは活躍の場を求めてハンブルグへ。ヴァイオリニストの独奏だけでは限界がありますが、優秀なピアノ伴奏者がいれば鬼に金棒だと考え、ハンブルグ中で意中のピアノ伴奏者を探しました。そして遂に、若く貧しく無名なブラームスと出会うのです。

 この時、自己顕示欲の強いはったり屋だった24歳のレメーニは、内省的で静かな19歳のブラームスにこう言いました。

「俺と君が組めば道が拓ける、まずはドイツの都市を演奏旅行して廻ろう。俺らを助けてくれそうな友人知人もいる。ハンブルグでいつまで燻ってるつもりかい。世界は広いんだぜ。君も作曲した曲を持ってくるがいい。」

 レメーニが持ちかけた話は、若きブラームスを大いに刺激します。

 歴史上の“if” を言っても仕方ありませんが、レメーニがブラームスと出会わなければ、ひょっとしたらその後の音楽は違っていたかもしれません。

 1853年4月19日、二人はハンブルグを出発します。この時点では、具体的な計画と言えるものなく、あるのは根拠のない自信と微量の不安でした。