「見る神」が
いない社会の課題
神保 岸見先生は、縦の人間関係が精神的な健康を損なう最大要因であるとも書かれています。
岸見 そう思いませんか。縦の関係では、絶えず上の人の顔色を窺わないといけない。自分の言うことが気に入られるかどうかを気にするのはかなりしんどいですよね。
宮台 人間は、人が見ているとちゃんとするけど、見ていないとズルをする動物です。実験でも確かめられてきました。だから、この性向を利用した制度があります。国家機密をアメリカなら25年、ヨーロッパの多くの国なら30年で情報公開するルールがありますが、いずれ情報公開されると知っていれば、私利私欲の暴走が抑制されるからです。
社会システム理論の視座から言えば、「見る人」がいないとちゃんとできない成員が大半である社会は、一定以上は複雑になれません。絶えず対面制御が要求されるので、コミュニケーションの文脈が制約され、取引コストが上がるからです。コミュニケーションを文脈自由にするために必要な信頼を調達できないということです。
部族段階(原初的社会)から文明段階(高文化社会)へと複雑化した社会は、大半が「見る神」の表象を持ちます。代表的なのは、ユダヤ教の神やキリスト教の神やユダヤ教の神です。これら3つは同一神ですが、この唯一絶対神に限られません。日本で「お天道様が見ている」とか「ご先祖様が見ている」という場合も、「見る神」を持ち出している。
前ローマ教皇ベネディクト16世が、キリスト教の唯一絶対神──「主」ないし「神の中の神」──の本質は「見る神」で、罰や報償を与える神ではないと述べています。罰や報償に関係なく、「見る人」を前にすれば、人はシャンとするのです。あるいは「見る人」がいなくても「見る神」がいればシャンとします。
神を持たない社会、あるいは神が死んだ社会ではどうなるか。それを課題としたのが、プラグマティズムの社会心理学者ジョージ・ハーバート・ミードです。ミードについてよく知られているのが、「I」と「Me」の対立概念です。その含意を日本では社会学者でさえ理解していないので、ここで紹介します。
ミードは、「Me」とは「自分が見た自分」で、「I」とは「自分が見た自分に対する反応」だと言います。たとえば、「自分が見た自分」が浅ましく見えたことへの反応として「浅ましいことはやめよう」という意欲が湧いたりするのが、そうです。こうして、「見る神」が存在しなくても、「見る自分」の存在によって、自分がシャンとすると考えたのです。
では、「Me」の浅ましさに対して適切に反応する〈内発性〉としての「I」は、どう形成されるか。ミードは、ロールテイキング(役割取得)をもたらすロールプレイ(ごっこ遊び)が重要だとします。たとえば、僕らが子ども時代のアニメでは「卑怯者!」がキーワードでしたし、子ども同士のごっこ遊びに「卑怯だぞ!」という物言いが頻繁にありました。
そうした罵声自体がネガティブなサンクションになって、子どもらは、「一般に人はこういう振る舞いを卑怯だと思うこと」や「そう言われると誰だって嫌だと思うこと」を学びます。これをミードは「一般的他者の役割を取得すること」と表現します。そうやって子どもらは立派な大人になっていく。ところが今は「卑怯」という言葉は死語です。
神保 ほんと、聞かないね。
宮台 そう。「立派」と「卑怯」という対立概念が消えて、「うまくやるヤツ」と「やれないヤツ」の対立だけになりました。そこに、ロールプレイが貧弱だという「ロールテイキングの貧しさ」ゆえの、コミュニケーションの貧しさが見出せます。それが貧しいのは、「Me」に対する適切な反応としての、共同体感覚に満ちた「I」が不在だからです。
ミードは、ごっこ遊びのロールプレイを通じて「一般的他者の役割」つまり共同体感覚に満ちた「I」を習得する過程で近接する他者たちとの関係性が不可欠だと考えましたが、最終的には近接する他者たちが必要なくなる、つまり周りに人がいてもいなくても大概の人がそう見るように自分を見て反応できるようになる、としています。
岸見 縦の関係が前提の「ほめる、ほめられる」について補足しますと、ほめられて育った子どもは、ほめる人がいないと適切な行動をしなくなります。ゴミが落ちていれば普通拾いますよね。でも、そうした子どもはまず周りを見ます。そして目撃している人がいれば拾ってゴミ箱に捨てる。それは精神的にあまり健全だとは思えないですよね。誰も見ていなくてもちゃんとゴミを拾う子どもになって欲しい。だからほめることは望ましくないとアドラー心理学では考えます。
宮台 ある程度複雑化した社会には、他人に見られない振る舞いがいっぱいあります。もし人が見ていなければ何でもアリになるようであれば、複雑な社会は到底存続できません。「見る人」がいなくても、「見る神」ないし「見る自分」の存在ゆえにきちんと振る舞えることが重要になります。
その場合も、「見る神」や「見る自分」が、「損得勘定」を超えた「内から湧き上がる力」をもたらすのが良い。つまり〈自発性〉ならぬ〈内発性〉をもたらすのが良い。初期ギリシアが「見る神」を否定して「見る自分」を鍛えようとしたのは、「見る神」が「罰する/褒美をくれる神」になると、損得勘定が優位になりがちだからです。
ベネディクト16世ことヨーゼフ・ラッツィンガーが、主なる神は「見る神」であっても「罰する/褒美をくれる神」ではないと強調するのも、ルカによる福音書10章25節以降の「善きサマリア人の喩」などを通じて、こうしたギリシア的思考を意識するからです。ちなみに全てコイネーギリシア語で書かれた福音書にはギリシア的思考の影響があります。
いずれにせよ、人が見ているからちゃんとするのと、人が見ていないときに内から湧き上がる力でちゃんとするのとでは、動機づけの文脈依存性が違います。後者は社会的文脈をオープンにし、社会の進化を支えます。ミードによれば〈内発性〉の不在は、子どもの成長過程における故障です。岸見先生が「健全ではない」とおっしゃることに重なります。
(続く)
※この鼎談の全編は、インターネット放送番組「マル激トーク・オン・ディマンド」にてご覧いただけます。
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