神保 しかし、「これは共同の課題にすべきこと、これは私の課題、これはあなたの課題」といった判断は難しいですね。

岸見 カウンセリングに来られる方を見ると、一方で本来はすべて自分の力でやるべきことまで他者に依存してしまうタイプの人がいます。他方で本当は援助が必要なのに援助を求めない人も多い。

神保 つまり助けを求めない?

岸見 人間は一人では生きていけないことを大前提にすれば、できることとできないことの見極めをきっちりとつけるのが大事です。できないことまでできるという人も困りものです。だからこそ課題を分けていく作業は絶対に必要なのです。

神保 まずは、自分にできないこととできることを見極めて、できないことだった場合は、共同の課題にして欲しいと意思表示するんですか?

岸見 そうです。だから、そういう意思表示を子どもからしてきたときは、共同の課題にしていいと思います。それは比較的安全なのですが、親が子どもの課題を共同の課題にしようとするケースは非常に危険です。親は子どもに対して「何かできることはないですか」と常に言っておけば十分です。そして、子どもが何も言ってこなければ何もしないほうがいいのです。

横の関係/縦の関係と
共同体感覚

神保 アドラー心理学では、縦の関係と横の関係ということもすごく言われます。たとえば、親が「子どもによかれと思って」というようなのは縦の関係で、それでは問題は解決しないと。とはいえ、親からすれば子どもとの関係は縦が当たり前だと思っているところがあるでしょうし、人生経験も親のほうが豊富なわけです。それでも、「いや、そうではなく、横の関係つまり対等であるべきだ」という。その点を説明していただけますか。

岸見 親と子どもが同じだと言っているわけではありません。知識も経験もたまたま先に生まれたので、子どもよりは親のほうが多少はあるでしょう。そういう意味では同じではない。また、取れる責任の量が違います。たとえば、ある家庭に門限があるとします。小学校1年生の子の門限が夜10時ということはあり得ない。責任が取れませんから。けれど、もしその家庭に門限というものがあるのならば、子どもだけでなく父親にも門限がないと対等とは言えないということです。

神保 父親は遅い時間でもいいけど、門限はやっぱりなきゃいけないと。

岸見 そうです。親と子は違うけれど、人間としては対等だと言いたいのです。

宮台 アドラー心理学のキーワードは、岸見さんの『嫌われる勇気』のタイトルにある「勇気」に加えて、「責任」です。前回の話にも出たように、過去ならぬ未来の引力に自分が引っ張られる場合に「勇気」が出るわけです。これに対し、課題の分離は「責任」の問題に深く関わります。
 やはり恋愛がわかりやすい。プラグマティストが重要視するような、利害損得の〈自発性〉を超えた、内から湧く力である〈内発性〉──利他性や貢献性──の本質は、アダム・スミスが言うシンパシー(同感)に当たります。「相手が喜ぶことが自分の喜びになり、相手が悲しむことが自分の悲しみになる」という感情の働きです。
 この同感可能性にとって、親子や先輩後輩や上司部下のような縦の関係は、雑音になります。なぜなら、「何かしなければ」という義務倫理的なものが入り込むからです。ちなみに哲学では、義務倫理と徳倫理を分けます。義務倫理学は、カントの無条件命令が典型ですが、「〜しなければならない」という義務的命令を重視します。
 これに対し、内から湧く力である「内発性=ヴィルトゥス(徳)」を重視する徳倫理学は「〜しなければならない」でなく「〜したくてたまらない」という感情を重視します。上下関係や、横関係でもルールで縛られた関係だと、感情の次元が義務に乗っ取られます。むろん僕らは義務を引き受けて社会生活を送りますが、問題はその引き受け方です。
 〈内発性〉に発する喜びゆえに引き受けるか。義務の観念に縛られて引き受けるか。フロイトなら「超自我」という形でやはり義務の次元を重視します。超自我は心の中で抑圧を担います。フロイトには強迫的な「義務」からの解放という主題が出てきますが、引き受ける「責任」の話がない。「責任」を引き受けるには〈内発性〉が必要です。