農夫の息子として生まれたアメリカの実業家ジョン・ロックフェラー(1839~1937)は、月給25ドルの雑用係から身を起こし、9億ドルを超える資産を持つ石油王になった。
16歳で働き始めたロックフェラーは、その3年後には自分の農場を経営し、1862年には石油業界に身を投じていた。地元の競合企業を吸収すると、アメリカ全土に広がる配送網を持つ石油会社を次の目標に据えた。このビジョンをスタンダードオイル社で達成する。1879年にはアメリカの全石油精製量の90%を握ったからだ。
ロックフェラーは1897年に同社の経営から事実上手を引いた。ただし、スタンダードオイルのトラストがアメリカ政府によって解散させられた年、1911年までは社長の職にとどまっていた。晩年は、自分の膨大な財産を活かした寄付活動に専念した。
成功への階段
ジョン・ロックフェラーは1839年、ニューヨーク州ティオガ郡リッチフォードに生まれる。6人きょうだいの2番目、長男だった。両親は農業を営んでおり、ロックフェラーは他のきょうだいと同じように、家業を手伝うものと頼りにされていた。幼いころから、ビジネスに対する鋭い嗅覚を持っていた。七面鳥を育て、それを売って得た利益を7%の金利で貸しつけたりもした。
14歳になるころには、一家がオハイオ州クリーブランドに移住する。当地の高校で1年、次にフォルサム商業学校でしばらく学んだところで、仕事の話が来た。1855年、農作物の配送業者ヒューイット&タトルという名の会社で雑用係兼簿記見習いの仕事に就いた。当初は無給ということになっていたため、最初の14週間は1セントも給料が出なかった。14週間経ったところで、50ドルを受け取り、以降月給25ドルとなった。
ロックフェラーはこのヒューイット&タトルに3年間勤務、年間800ドルの給料を要求し拒否されたところで同社を辞めた。企業経営のありさまをつぶさに観察したその3年間の経験を足がかりに、ロックフェラーは独立を決意する。
転機と決断
パートナーのモリス・B・クラークと協力し、父から10%の利子で借りた1000ドルを元手に、ロックフェラーは農作物ビジネスを始めた。地元の農家をくまなく訪問し、自分を売り込み、名刺を渡した。手応えは上々で、初年度の1859年の売上高は50万ドルになっていた。