人には、見たくないものは見えない。見ようと努力しなければ、見えてこない。
「ワーキングプア」や「ネットカフェ難民」が流行語になったために、日給、時給で得た数千円を握り締め、日々綱渡りのようにネットカフェで暮らす若者、中高年の存在が知られるようにはなった。
住居を持たない彼らは、体調を崩せばたちまちホームレスとなってしまう貧困層もしくはその予備軍といっていい。
では、彼らは、労働人口の3分の1を占める非正規社員1670万人のうち、いったい何人いるのだろうか。
なぜ、“まともな職業”に就けなかったのか。低学歴ゆえなのか。
それにしても、家族の支えを失い、公的保護も受けられずに現代の貧困層に転落したのは、いかなる経緯からなのだろうか。
要は、本人の努力不足という自己責任に帰す問題なのだろうか。
それとも、ポスト工業化社会、グローバリゼーションによる産業社会の変化がもたらした構造問題なのか。
実態は、ほとんど何も分かっていない。
最大の原因は、日本政府が1966年に貧困層の調査を打ち切り、再開していないことにある。議論の土台となるデータがないのだ。
政府、というより私たち日本人全員が、戦後の困窮期を抜け、高度経済成長を経て、豊かな社会実現した自負からか、もはや貧困はないものとしたのである。
もはや遠い日本の昔か、アジア、アフリカなどの遠い地域にしか存在しないのだと思い込んだのである。
だが、それは見たくないものを見ないようにしただけのことだった。
「現代の貧困」(岩田正美。ちくま新書)によれば、実は、先進諸国、OECD諸国は、実現した豊かな社会、福祉国家に存在する貧困層を執拗に“発見”し、救済してきた。