「触法少年の更生」についても同様だ。いくら被害者家族にお詫びの手紙を書いたとしても、それは言葉に過ぎない。本当に罪を悔いて、更生して生きようとしているならば、その姿勢は「行動」に表れているはずだし、被害者家族の感情を癒やすのも、「行動」によって表現された謝罪と後悔の念である。

 今回の『絶歌』議論のなかでは、「元少年Aは少年院を出所している。つまり罪を償っている」と論じる人間もいるが、それは間違いだ。罪には刑法的な罪と民法的な罪がある。元少年Aが償いを終えたのはあくまで刑法的な罪であり、民法的な罪はまだ償っていない。週刊誌報道などによれば、被害者家族に対する賠償金の支払いは終わっていない。つまり、いまだ元少年Aは「償いの途中」なのだ。

 ただ、ほとんどの場合、家族の誰かを殺された人間が本当に望むことは、賠償金ではない。民法事件の多くは、お金でしか償う方法がないので賠償金という方法をとるが、お金ではなく「誠意」で罪を償ってほしいと考える被害者、被害者家族も多いと思う。酒鬼薔薇事件の被害者家族なら、なおさらであろう。

 そして、これも報道から推測するしかないが、元少年Aは被害者家族に対して「誠意」を示せていないと思われる。繰り返すが、元少年Aは何度も謝罪の手紙を送っているというが、それは言葉に過ぎない。被害者家族はその手紙を読んでいない、読まないという報道もあるが、それは「謝罪と後悔を、言葉ではなく、行動で示せ」というメッセージではないだろうか。つまり、被害者家族は、元少年Aの「その後の生き方」に、謝罪と後悔の思いを感じ取っていないのだ。では、元少年Aはどうすればいいのか。僕は、それが「社会貢献」ではないかと思う。

 もし、元少年Aが出所後に、知的障害者支援NPOや児童養護施設、あるいは途上国支援のNGO等でスタッフとして働いていたとしたら。溶接工などの職業を転々として生きているより、社会貢献に残りの人生を捧げていれば、その行動は殺された男の子のご両親に対して少しでも誠意が伝わり、ご両親の心も少しは癒やされていたのではないだろうか。

 ここからは一般論になるが、「触法少年の更生」をかみ砕いて言えば、「まっとうな生活」である。まっとうに仕事をして、まっとうな社会生活を送れるようになる。その理念自体は間違っていない。

 しかし、肉親を殺された遺族からすれば、犯人が出所後にまっとうな生活を送ること自体が、精神的打撃になる場合もある。自分の子どもを殺した人間が、出所後に普通に仕事して、普通に結婚して幸せな家庭を築いている――そこに被害者家族が言いようのないわだかまりを感じたとしても不思議ではない。

 一方で、もし加害者が残りの人生を社会貢献に捧げていたとすれば、被害者家族も、加害者を少しは許そうという気持ちになるのではないだろうか。実際、少年院や刑務所を出所した後に、熱心に触法少年の更生活動を行なっている人たちもいる。少年院の更正教育には、社会起業家育成プログラムのような社会貢献教育を取り入れるべきではないか。その意味でも、「更生とは何か?」を改めて考えさせる事件である。