今回は、ある老夫婦を取り上げることで、本当の「弱者」は誰であるのかを考えたい。その夫婦は、神奈川県内のある町で商店を営んでいた。病気などですでに他界しているが、あることがきっかけで、この夫婦はメディアに登場することになった。
当時、夫婦を取り上げるメディアの目は明らかに歪んだものだった。夫婦はメディアによって「弱者」と目され、「救済されなければいけない対象」とされた。詳しくは後に続くエピソードを読んでほしいが、筆者はこの夫婦を取り巻く当時の状況には、現在の企業の職場にも相通じる課題が横たわっていたように思う。
企業の職場においても「弱者」と目される人はいるが、そもそも利害関係が複雑な企業において、特定の人を「弱者」と見なし、「救うべき対象」とすることにはあまりにも無理がある。こうした雰囲気が、世の中を息苦しくしている大きな理由の1つであるとさえ、筆者は思っている。
ところが、その歪んだ論理を押し通そうとする世論や空気がある。それを盛んにリードするメディアや識者もいる。そのいびつな構造の中で、本当の「弱者」が苦しみ、声なき声を発しているのだ。メディアは本来、そうした声こそ拾い上げるべきではないのか。
本当の「弱者」は誰なのか?
老いた女性の死から想起すること
数年前、1人の女性が亡くなった。70代後半だった。そのことを先日、知った。筆者はその女性と、1998年から2000年までの間に、取材を通じて10回ほど会った。その後も、電話で何度か話し合った。
1998年当時、彼女は64歳。それより8年前、夫が脳梗塞で倒れた。意識がなく、家の中で寝たきりだった。夫婦は40年以上にわたり、東急東横線の某駅から歩いて15分ほどにある「商店街」で、履物屋を営んでいた。
98年の時点で、店は閉店寸前だった。店主である夫は店に立つことなど、到底できない。妻であるその女性は、終始介護で夫に付き添った。