江戸時代の行政の仕組みは、近代日本の自治制度の礎になった。それは、驚くほど先進的で効率的なものだった

連載第8回では、明治維新期の政府は外交や防衛、それに国家としての最低限の姿をつくり上げるのに手一杯で、内政面、すなわち殖産興業といった分野は基本的に地方や民間任せであったが、そのようなことができたのは、当時の地方の経済力が強かったからだったと述べた。

 さらに言えば、江戸時代以来の地方自治がしっかりしていたので、地方のことは地方に任せても問題がなかったのである。そこで今回は、明治維新以降の地方自治の基盤となった江戸の自治についてご紹介することとしたい。実は、その基盤の上に、わが国の民主主義も発展して行ったと言えるのである。

日本の民主主義の礎となった
江戸時代の地方自治

 明治も半ばになった明治26年に、勝海舟が語った話が『氷川清和』という本に出てくる。勝海舟は「地方自治などいふことは、珍しい名目のやうだけれど、徳川の地方政治は、実に自治の実を挙げたものだヨ。名主といひ、五人組といひ、自身番(警察)といひ、火の番(消防)といひ、みんな自治制度ではないかノー」と言っていた。

 実は、明治20年代に創設された日本の地方自治制度は、江戸の自治を土台にしていたのである。明治政府は中央集権的で、地方も中央集権化したと認識している人が多いが、明治維新期の政府は外交や防衛、それに国家としての最低限の姿をつくり上げるのに手一杯で、内政面、すなわち地方自治にはほとんどノータッチだったというのが実態だった。

 そのため、江戸の自治を引き継いだ。そこで勝海舟の話になるのだが、それでもほとんど問題がないほどのものだったのが、江戸の自治だったのである。ちなみに、明治時代に地方自治制度をつくったのは山縣有朋。明治の元勲として伊藤博文と並び称された山縣は、今日では軍閥の元祖とばかり思われているが、山縣には江戸の自治を引き継いで、その伝統の上に、当時の西欧諸国に負けないような立憲制を築き上げていこうとしたという、全く別の顔があった。戦前の制度はみんな悪いように思っている人が多いが、そのようにしてでき上がった明治の自治には、それなりに優れたところもあった。それがおかしくなったのは、先の戦争のときだと言えよう。

 わが国の地方自治制度が江戸の伝統を引き継いでいたことについては、福沢諭吉がこんなことを言っている(『福沢諭吉全集』の「6の65」「6の50~51)。

「日本国民は250年の間、政権こそ窺ふことを得ざれども、地方公共の事務に於ては十分に自治の事を行ひ、政府の干渉を受けざること久し(『福沢諭吉全集』6・65)」