13日の金曜日、しかも仏滅という、自分の人生をかけた勝負時にはあまり選びたくないような日の夜に、テレビ復帰したタレントのベッキー。このタイミングでの復帰についての是非については論じないが、芸能スキャンダルには関心のないビジネスパーソンにとっても、企業やビジネスのコミュニケーション戦略という点ではケーススタディとなると思うので、その視点からの論評を行なっておく。

ベッキー・バッシングの
「問題の本質」はどこに?

 まず今回のベッキーの件では、一般に(マスメディアでもネットでも)ベッキーの「不倫問題」とされているが、問題の本質はそこにはない。もちろん不倫は世間的に許されるものではないが、不倫が大きな社会的問題になるかどうかは、そのシチュエーションや立ち位置による。

 例えば、今年年初に起きた宮崎謙介衆院議員(当時)の「イクメン・ゲス不倫事件」は、イクメンという「政策」を推進している国会議員が、こともあろうに妻が臨月の状態で自宅に女性を引き込んで不倫した事件で、これは不倫そのものが問題となるケースだった。国会議員が国家の政策そのものを否定し、愚弄する行為だから大きな非難を浴びるのは当然だし、議員辞職もやむなしのケースだったと思う。

 しかし、芸能人の場合は、不倫そのものが問題になるかどうかは、それこそケース・バイ・ケースである。それが証拠に、タレントのなかには妻帯者でありながら浮気を繰り返すダメ夫ぶりをキャラクターにしている男性タレントもいて、夫婦でバラエティ番組に出演して、夫が浮気の話をして妻がそれをなじるといったトークを堂々とテレビで放映しているが、そのことについてマスメディアも批判はしていないし、ネットで炎上もしていない。

 ベッキーのケースも、ゲスの極み乙女。の川谷絵音との不倫が問題だとされているが、これはたしかに芸能スキャンダルではあるが、ベッキー・バッシングの本質は実はそこにはない。誤解を恐れずに言えば、不倫そのものが問題とされた(批判された)のではなく、週刊文春の不倫報道のなかで出てきた、ベッキーと川谷とのLINEでのやり取りの中身に対する批判であり、嫌悪感である。

 もちろん不倫を擁護するワケではないが、この件でのベッキー批判の本質は、川谷との不倫そのものではなく、週刊文春が暴露した2人のLINEでのやりとりにある。「(記者会見は)友達で押し通す」「これで(文春報道で)かえって堂々とつきあえる」といった表現があったが、とくに「ありがとう文春!」「ありがとう、センテンス・スプリング!」という「言い方」に、多くの国民はカチンときたのだと思われる。

 これは例えて言えば、「明るく清純なイメージの生徒会長の女子高生が、体育館の裏で不良男子と一緒に気にくわない下級生女子にヤキを入れていた場面を見られてしまった」みたいな話であって、それまでのイメージと、やってること、言ってることのギャップの大きさが、今回のバッシングの本質だ。仮にベッキーがどうしようもないダメ女キャラ、不良キャラで売っていたとしたら、不倫もLINEでのやり取りも、ここまで大きな問題にはなっていないはずだ。事実、ベッキー批判が大きくなったのは、川谷との不倫報道そのものより、2人のLINEでのやりとりを文春が暴露して以降のことである。