住職だった父との確執

突然聞こえた日本語に驚いて振り返ると、中年の日本人男性が立っていた。どことなく父と似た容姿ですぐわかる。彼が小川吉郎——父の兄、そして私の伯父だ。ほとんど覚えていなかったが、私の記憶の中の伯父はもっとやさしそうな人だった。顔を合わせるのは20年ぶり以上なのだから、「大きくなったな」のひと言くらいあってもよさそうなものではないか。

「経営者のおれが言うんだから間違いない。この店はもうダメだよ。利益もほとんど出ていないから、君に払う給料もない。夏美さん(私の母のことだ)からもメールをもらったんだ。夏帆、日本に帰りなさい。あいつの病気もよくないんだろ」

「あいつ」というのは私の父のことだ。昔から私と父の関係は最悪だった。父は京都にある禅寺の住職だ。幼いころから坐禅を組まされたり、厳しい修行を課されてきた私の反抗心は、思春期を迎えたころに爆発した。

「坐禅、修行……あんな非科学的なもので人の心が救えるはずがない!」

父への反発心が、科学で人の心を癒す道、脳科学へと私をさらに駆り立てた。

イェール行きを決めた直後、父のガンが発覚した。入院して闘病生活がはじまってからも、父は私の渡米に反対し続けた。

「やめとけ、お前には無理や」

それが父の言い分だった。

「なんでわかってくれへんの!」

長年にわたり抱いてきた父への不満が爆発し、私はとうとう別れも告げないままアメリカにやってきてしまった。

いまでも父のことを思い出すと、怒りがとまらなくなる。本当に悔しくて仕方がなかったのだ。だからこそ、研究者として圧倒的な結果を出さない限り、私は日本に帰れない。帰らない。そう心に決めていた。

私は「ここで働かせてください」と伯父に食い下がった。何の根拠もなかったが、「この店を立て直してみせます!」と宣言した。伯父も私と同じくらい頑固な性格だったが、さすがにこちらが1時間以上も粘るとは思わなかったらしい。露骨にうんざりした様子を見せながらも、しまいには折れた。

「勝手にしろ!こんな店……もうダメなんだ」

モーメントのスタッフは伯父を含めて6人だった。

この店のスタッフにはみな問題があった。お調子者で注意力散漫。人から何か注意されることに過敏で反抗的。不遜で他罰的。受け身で主体性がない。ネガティブで無気力の塊……。全員に共通していたのが、覇気のなさだ。彼らには「打てば響く」感じがまったくしない。

「イェールで脳科学を研究している姪のナツだ。今日からこの店を手伝ってもらう」

伯父のいい加減な紹介を受けた私は、翌日からバタバタと忙しく動き回り、スタッフに対しても遠慮せずにあれこれと注意して回った。自らウェイトレスとして接客もし、手本になろうともした。家に帰ってからも睡眠時間を削って経営の勉強をし、すぐさまそれを実行に移した。

だが、こちらがどれだけ熱心にやろうとも、彼らは以前にも増して疲れた顔をして動こうとしない。むしろ、より怠惰になったくらいだ。
私自身にも疲れとイライラが蓄積していき、1週間経ったある日、私はとうとうお客のいる前でスタッフの1人を怒鳴りつけてしまった。

翌日、スタッフたち全員が仕事をボイコットした。伯父には「あの女を解雇しない限り、私たちは働かない」と言っているらしい。

「そういうことだ、夏帆。力になれなくてすまないが、やっぱり辞めてくれ。これは1週間分の給料だ」

そう言い残すと、伯父は去っていった。もはやそこまでだった——。

私はその場にへたり込んだ。すっかり疲れきっていた。アメリカに来てから数ヵ月、ほとんど休めていない。いや、日本にいたときだって、まともに休んだ記憶はほとんどない。

私の頭の中にはいつもひっきりなしに考えが浮かんでいた。休まなかったのではなく、休もうと思っても休めなかったのかもしれない。