初心忘る可からず

 当時の夜行列車は本数が少ないのでいつも混んでいたが、この日は特にひどくてすし詰めだ。ドアに半身を乗り出した乗客が鈴なりで、これ以上乗れそうもない。

 普通なら諦めて翌日にしようと思うところだが、幸一は諦めなかった。

 何と彼は開いている窓から、

「すんません、入れてください。すんません!」

 とあやまりながら、無理やり身体を押しこんだのだ。

 荷物も持っているのだから強引そのもの。並の神経では出来ない芸当だ。

 乗ったはいいが、座席はもちろん床まで人で一杯である。すると彼はひじ掛けにつま先を乗せ、背もたれにおしりの片方を乗せ、片手で網棚の棒をつかみ、反対側の肩にブラパットの入った箱を抱えた格好のまま、東京までの10時間以上を耐えた。若いからこそできることだった。

 幸一はアクセサリーを担いで全国を行商して回っていたが、東京だけはいつも避けて通っていた。自分の商品が東京で通用するという自信がなかったからだ。前回彼が東京に行ったのは、東京の親戚を訪ねて東京見物をした昭和15年(1940年)のこと。実に9年ぶりの東京だった。

 東京駅に着き、八重洲口から銀座に向かって歩きながら、ブラパットを置いてくれそうな店に飛び込み営業をした。どの店でも関心を持ってくれ、飛ぶように売れる。

 (これは幸先がええぞ)

 と内心ほくほくしながら銀座4丁目の服部時計店(現在の銀座和光)の前までやってきた。

 三越やミキモト真珠の並ぶ銀座のど真ん中である。信号を待っていてふっと交差点の向こう側を見ると見たことのある顔が見えた。青山商店の人間だ。向こうはまだ気づいていない。相手の持っている荷物を見て、売っているのはブラパットに違いないと確信した。銀座をちょうど半分ずつ販売して真ん中で出会ったに違いなかった。

 幸一は向こうに気づかれる前に、近くにある地下鉄銀座線の駅の階段を駆け下り浅草へと向かった。下町の浅草でもブラパットは売れた。これは間違いなく売れると確信した。

 (こら安田はんを早く押さえとかなあかん)

 持ってきた分を完売すると長居は無用と、その日の夜行で京都にとんぼ返りし、すぐに安田と独占販売契約を結んだ。今度こそ機先を制することができたのだ。

 今でもワコール本社には初期のブラパットがガラスケースに入れられて保管されているが、そこには“初心忘る可からず 塚本幸一”と書かれた紙が貼られている。ブラパットはまさにワコール塚本幸一の原点であった。