リオのパラリンピックが明日7日に開幕する。オリンピック後に開催されるこの大会、以前はほとんど注目もされなかったが、近年はマスコミでの報道も徐々に増え、人々の関心も高まっているようだ。僕のところにも、パラリンピック絡みでいくつかの取材依頼が来ている。たとえば、9月3日付けの中日新聞、東京新聞にもインタビュー記事が掲載された。
これは、2014年2月に書いた当連載の第105回記事「もう、パラリンピックは終わりにしよう。生みの親だからこそできる、2020年東京大会の歴史的役割」を読んだ記者や編集者の方たちが注目、共感してくれて取材依頼をしてくれたわけだが、このDOL記事でも今回の各種取材でも、僕が主張していることは一貫している。それは「パラリンピックはオリンピックと統合しろ」ということだ。その主張は2年前に書いた記事と変わらない。ただ、社会の障害者に対する見方、向き合い方はこの2年でもずいぶん変わったかと思う。今回は、その変化を踏まえて、もう一度、この問題を考えてみたい。
『24時間テレビ』に対する批判
その変化を直近で最も強く感じたのは日本テレビ系『24時間テレビ』の裏で、NHK・Eテレがぶつけた『バリバラ』という番組に対する世間の評価である。
『24時間テレビ』は1978年から始まった。全国各地でチャリティキャンペーンを行う「チャリティ番組」として始まったはずなのだが、近年はほとんど「障害者と重病患者による感動バラエティ番組」になってしまっている。もちろん、障害者や重病患者を登場させて感動ドキュメンタリーを放映することが悪いわけではない。しかし、障害者個人、重病患者個人の感動物語を放映することと、チャリティはイコールではない。
チャリティの基本的な役割は「寄付金集め(ファンドレイジング)」であるが、同時に「啓発」という重要な役割もある。啓発とは簡単に言えば、いままで社会には見えていなかった社会問題を顕在化させ、人々を社会問題解決のための行動に促すということだ。寄付はその行動の第一歩なのである。
しかし『24時間テレビ』には、この重要な「啓発」の部分が抜け落ち、単に障害者のことを、健常者が「感動」を消費するための道具として扱っているだけではないか――。これが、近年の『24時間テレビ』に対する批判の要諦だ。前述のNHK・Eテレ『バリバラ』は、この「批判」を真正面から捉えたものだ。番組のテーマは、「検証!『障害者×感動』の方程式」。放送時間は8月28日(日)の19時00分から30分。まさに『24時間テレビ』がフィナーレを迎えようとしている真裏の時間帯。NHKは否定しているが、誰がどう見ても『24時間テレビ』への対抗企画だ。
番組の中身に関しては、ネットでも多くの情報がアップされているので、詳しくはそちらを参照してほしいが(ex:『24時間テレビ』を批判か? NHKの『バリバラ』に大反響)、この番組のキーワードとなっていたのが「感動ポルノ」という言葉だ。