マレーシア人には通じない
『シン・ゴジラ』の圧倒的リアリティとは

 会場の中で、唯一の日本人である筆者と妻以外は、たぶんこの映画を「ただの娯楽怪獣映画」として観ていったのだ。もちろん、子どもたちは例外だが、大人では筆者と妻だけが「固唾を飲んで」いて、他のすべてのマレーシア人は「絵空事」としてこの映画を「楽しんで」いたのだ。

 この映画の日本での映画評で、ほぼ全員が認めているのは、ゴジラは3.11の震災および原発事故のメタファーであり、それに対して日本政府がいかに対応するかをシミュレートした政治ドラマとして、圧倒的なリアリティを持っていることだ。

 だが、今回の鑑賞でわかったのは、その「圧倒的なリアリティ」の肝は3.11を経験し、かつ日本というシステムで暮らし続けた日本人にしかわからないということである。

 以下の記述はネタバレが含まれているので、まだ知りたくない方は読まないでいただきたい。

 巨大未確認生物が突如東京湾に現れて、それに対する政府の初動が描かれる序盤は、前例のない出来事のために、官邸、閣僚、各省庁が右往左往する様子が描かれる。結果として大した対策もできないまま、第2形態のゴジラは海に消える。

 これを3.11の時の政府対応のブラックコメディと解釈するかどうかは別として、一所懸命やっているものの、効果的な対応ができない、という政府の機能不全性については、3.11の惨禍を経験したものならば実感として理解できるだろう。震災当時関東に住んでおり、停電や物資不足などを経験した筆者もそうであった。

 だが、頻繁に描かれる会議の様子に、マレーシア人観客はだんだんと飽きてきてしまい、飲み物やお菓子を食べ、おしゃべりが始まる。街でのパニックシーンや怪獣が暴れるシーンでは、皆一様に食い入るように見るが、会議のシーンになったとたんに、ため息が聞こえるのだ。

 筆者にとっては、これらの会議シーンこそが「日本というリアリティ」を体現しており、そのうまくいかない意思決定のプロセス自体が、まさに日本という文脈を示している箇所なのだが、明らかに、そして当然ながら、日本人ではない人々はそれを共有しない。

 そうなると、マレーシア人観客にとっては、会議のシーンは、退屈、あるいはまどろっこしいものに映ってしまうことだろう。日本でシン・ゴジラを見た外国人の感想のひとつに、「ゴジラを観に来たのであって、会議を観に来たのではない」というネガティブなものがあったが、日本の意思決定について共有していない人が見たらそう思うのは納得できる。

 だが、ハリウッド版の怪獣映画のように、主人公が世界を左右するような意思決定と行動力を見せるやり方のほうが、本当は絵空事だ。ハリウッドはそれを絵空事に見せないために、ありとあらゆる演出をするが、シン・ゴジラではそうではなく「きわめて本物に近いカリカチュア」を見せることで現実感を出そうとした。

 これが筆者の持った「奇妙な感じ」の発端だった。そして筆者が最も「奇妙に感じた」のは、もっと映画が進んだ後だった。ゴジラが放射性物質の塊であることが明らかになり、ゴジラの通った後の線量測定結果が知らされる場面だ。線量の強さが色分けされた図で示されるが、映画はテンポよく進むので、セリフの中の○○シーベルトという単位が何の説明もなしに使われる。