「格差」か、「貧困」か
解決すべきはどちらか

では「共産主義」を目ざすわけでもないのに、どうして格差は解消されなくてはならないのでしょうか。この問題を考えるとき、ぜひ参照しておきたいのが、ハリー・フランクファートの『不平等論』(原著2015年)です。

フランクファートといえば、日本では『ウンコな議論』(2005年)という訳で出版された原著が、アメリカではベストセラーになりました。プリンストン大学の名誉教授ですが、端的な表現で読者にはっとさせる議論を展開しています。「格差是正」が叫ばれている現在、フランクファートの議論は貴重な視点を提供してくれます。

たとえば、フランクファートは、「格差解消」といった世間の平等主義的感情を逆なでするように、きっぱりと次のように明言しています。

経済的な平等は、それ自体としては、とくに道徳的に重要なものではない。同様に、経済的不平等(格差)も、それ自体では、道徳的に反論されるものではない。道徳の観点から見れば、誰もが同じものを持つことは重要なことではない。道徳的に重要なことは、各人が十分に持つことである。もし、誰もが十分なおカネをもつならば、誰かが他の人々よりも多く持つかどうかは、特に考慮すべき関心事にはならない。

こうした考えをフランクファートは、「平等主義」と対比して、「十分性の学説(十分主義)」と呼んでいます。つまり、その学説によれば、「おカネに関して道徳的に重要なことは、誰もが十分に持つということである」となります。

この学説では、所得が多いか少ないかは、それ自体では問題になりません。むしろ、生活するために十分なおカネがない人(貧者)がいれば、道徳的には、その人を救済する必要があります。こうして、道徳的に重要なことは、格差ではなく「貧困」になります。

ここで注意しておきたいのは、フランクファートの議論が「論理的に」展開されていることです。通常、経済的な格差を論じるとき、あたかも「経済的平等」がよいことであるかのように最初から前提されています。そのため、格差(不平等)が拡大されると、悪いことだから是正すべきだ、と主張されます。

しかし、格差(不平等)は、「それ自体で」悪いことなのでしょうか。たとえば、二人の所得が違っていても、それぞれ生活するのに十分なおカネを持っていれば、収入の格差を是正すべきとはなりません

もちろん、生活するのに「十分なおカネ」とはどの程度か、またそれを保障するにはどうするか─その他具体的な問題がたくさんあります。フランクファートが議論したのは、あくまでも原理的な問題なので、そうしたことを細かく追究してはいません。

しかしながら、「格差是正」か、それとも「貧困の救済」かでは、具体的な政策も変わってきます。したがって、格差(不平等)の問題を考えるためには、その根本にまで立ち返って問い直してみることも必要ではないでしょうか。