「超人?なんかそれ前から言っているよね。どういう意味?スーパーマンってこと?」
「いわゆる、筋肉ムキムキのスーパーマンとは関係ないので、頭の中に青いスーツに赤いマントで結果にコミットしたムキムキ男が浮かんでいたら、消し去ってくれ。
私が言っている“超人”には筋肉量も体脂肪率もライザップも関係ない。炭水化物を食べながらでも超人になることは可能だ」
「うん、わかった。イメージしないで話を聞くよ」
「超人というのは、ひと言でいうと、永劫回帰を受け入れ、新しい価値を創造出来る者だ」
「永劫回帰を受け入れる?」
「そうだ。たとえ同じような苦しみ、辛い出来事が繰り返されるとしても“それがまるごと自分の人生だ”と受け入れられること。
永劫回帰をニヒルにとらえ、“どうせ繰り返されるなら、生きているとか、だるい”と思わないことが重要になる。予期しない辛いことがあろうとも、自分の運命を愛するのだ。
人生に理想を掲げればきりがない。例えば、大富豪の家に生まれて、美貌にも才能にも恵まれて、人生が超イージーモードだったら、こんな苦労はせずにすむのに。なんて妄想や嫉妬は誰にでもあるだろう。けれども、そういう恵まれた生き方だけを理想とすることは、自分の運命の否定にも繋がる。お前がいくら“あの時、怪我さえしなければ”と嘆いても、現にお前は怪我をして陸上をやめている。
理想的な、恵まれた環境にない、かわいそうな苦労ばかりの自分の人生には価値がない、という否定的な感情に支配されてしまうのだ」
「自分の人生には価値がないと否定してしまう、か」
「そうだ、世の中は公平ではない。不公平だ。スタートラインも能力も人によって違う。これは当たり前のことだ。しかし、その中で“ゴール地点”にだけ固執してしまう人間はニヒルに陥る。
例えば、理想的な生活というゴールがあるとする。そのゴールから近いところがスタート地点の人間は得で、ゴールから遠いところがスタート地点の人間は苦労も多く、損している。とな」
「ゴールが決まっているなら、スタート地点の場所によって損得があるのは当然なんじゃないの?」
「そうだ、“ゴールだけに固執した場合”はそうだ。しかし、ゴールに行くまでの道のりを考えた時にはどうだろう?ゴールに向かう中で、ゴールから遠い人間にしか見られない景色もあるだろう。ゴールから遠い人間にしか感じられない、人の声援のありがたさ、というものもあるかもしれない。お前も誰かの声援に励まされたことがあるだろう。
ゴールや、理想だけを追い求めることはない。いま自分がいる場所、そして自分のスタートライン。それらをひっくるめて愛すのだ。それが運命愛だ。運命を持たなければ、損得に縛られ、自分が得をしていないような人生を否定することになってしまう」
「そっか、そうだよね。いまの自分が置かれた環境からしか、見えてこないこともあるかもしれないね。陸上部にいたら、いまここにいないだろうし」
「ああ、そうだ。世間一般的な理想や価値観だけにとらわれず、たとえ失敗しようとも、周りから嘲笑われようとも、自己流の価値をしっかり持って、自分を越えて行くことが生きる上で必要だ。周りからどう言われようとも、媚びず!退かず!省みず!自己の価値に誇りを持つのだ。
私たちは社会に生きている。社会に生きていると、どうしても他人からの評価、社会的な価値観でものごとを見てしまう。
例えば、自分よりもいい企業で働いて、成功している人が羨うらやましい。同い年で、稼いでいるやつを見て、自分の現状が惨めになってきたりする。
それはなぜか?私たちが他人からの評価や社会的な価値観を意識して、生きているからだ。他人からの評価を意識して生きることはごくごく自然なことだ。
けれども他人からの評価にばかりとらわれていたら、評価されなかった時にどう思うだろう。
“自分はだめなんだ、自分は必要ないんだ”と惨めな気持ち、妬ましい気持ちが湧いてくる。そうしてそのうち“努力しても無駄だ”とどんどんニヒルになってくる。
それは、誰しも身に覚えのある経験だろう。しかし私は、そういう生き方は、ひたすらもったいないと思うのだ。傷ついても、報われなくても、負けてしまっても、辛いことがつづき、たとえそれが繰り返されようとも、力強く、快活に生きるのだ。
”人生は無意味だから、どうでもいいや”ではなく“人生は無意味だから、自由に生きてやれ!”とただのニヒルではなく、積極的なニヒリストとして生きていけばいいのだ。それを極めるのが超人になるということだ」
(つづく)
原田まりる(はらだ・まりる)
作家・コラムニスト・哲学ナビゲーター
1985年 京都府生まれ。哲学の道の側で育ち高校生時、哲学書に出会い感銘を受ける。京都女子大学中退。著書に、「私の体を鞭打つ言葉」(サンマーク出版)がある