この大火の克服を目標に、わが国では都市防火対策の強化が図られている。一方で、防火モルタルの普及や防火帯の建設など市街地の難燃化に努め、他方で、消防体制の常備化や消防装備の近代化など消防力の強化に努めてきた。その効果があって、1965年の大島大火の後の50年間をみると、500棟以上を焼失する強風大火は1976年の酒田大火を除いて発生していない。そのことが「強風大火は起きないという思い込み」につながっている。

 ところで、40年前に起きた酒田大火については、火元がたまたま大規模な木造映画館であったこと、隣接のデパートが激しく炎上して火の粉を振りまいたことなど、特殊な条件が重なっての大火だったことから、「特異な事例」として片付けてしまった。その時に、正しく教訓を引きだして、他の都市でも起こりうるという危機感を持って再発防止に努めておれば、今回の大火は防げたかも知れない。ということでは、今回の糸魚川大火を「特異な事例」として、再び片付けてならない。

 なお、糸魚川の大火の歴史にも触れておこう。19世紀以降、今回の被災地では100棟以上焼失する火災が、10回も発生している。最近では、1928年と1932年にそれぞれ105棟、368棟が全焼する大火を経験している。その経験がどのように生かされたのか、あるいは生かされなかったのかが、今回の大火で問われているのだ。

火災拡大の主たる要因は
「輻射熱」と「火の粉」 

 火元は、被災地の南端付近にあった中華料理店である。店主が鍋に火をかけたまま自宅に戻ってしまったため、出火に至っている。消防の先着隊は、出火から15分後に到着しているが、その時には隣家にすでに延焼中だった。しかも、火点の厨房が奥まったところにあったため、道路側からは有効に注水ができない状態であった。その結果として、初期に消火することができず、周辺家屋への延焼を許してしまった。

飛び火により軒裏から延焼したと見られる建物(画像提供:室﨑益輝教授)

 火災は、強い南風に煽られて南から北へと拡大している。火災拡大の主たる要因は、窓や屋根を突き抜けて噴出する火炎からの「輻射熱」と「火の粉」であった。家屋裏側への噴出火炎については消防の水が届きにくく、拡大を許している。それ以上に拡大の推進力になったのは、屋根を突き破って噴出する火炎からの火の粉であった。柱の断片のような大きな火の塊が風に乗って飛んできたという。この火の粉によって約10件の飛び火火災が起きている。

 消防隊は初期において、ポンプ自動車6台で消火にあたっている。初期の鎮圧に失敗し、かつ強風が吹いている状況では、この6台ではとても勝ち目がなかった。そこで、広域応援を要請しているが、遠距離にある他都市からの応援が来るまでには時間がかかっている。結果的には、北に向かう火流を挟み撃ちする形で、東西方向絵の延焼を食い止めたが、北側への延焼は止められず、海まで拡大してしまった。海がなければ、もっと被害が大きくなったに違いない。