前回に引き続き、今回のテーマも「働き方改革」。というのも、これが僕の周囲ではどうも評判が悪いからだ。もちろん、人間というものは自分同じような価値観の人間とつるむので、半径5メートルのマーケティングでは、どうしても似たような意見、志向性が強くなる。なので、僕の周囲がそうだからといって、世間一般がそうであるとも言い切れない。
しかし、これまでの経験値から、働き方改革に批判的な人たちが、ある程度のクラスターを形成しているだろうことは推測できる。ちゃんとした定量調査をしたわけでもないので、そうした人たちがどれくらいの割合でいるかは不明だが、総じて仕事のできる、生産性の高い人たちが多い。「生産性を高めて長時間労働を減らそう」という議論が、生産性の高そうな人たちから批判的に捉えられているのは皮肉な現象だ。
多様性を考慮していない議論
彼ら彼女たちの批判意見の概要は、働き方改革の議論では多様性が大事だと言いながら、長時間労働も厭わないハードワーカーのことはまったく無視されているというもの。すでに多くの大企業が残業大幅削減や持ち帰り残業禁止などの施策を打ち出しているが、それは成長意欲の高い若手のハードワーカーにとっては、「仕事ができない状態」を押し付けられていると感じるという。まったく多様な働き方になっていない、というのである。
「女性の働き方」をめぐる議論も同様に、多様性を考慮していない。議論の中心は、ほとんど育児・子育てとセットで語られている。もちろん、女性が(というか男性もだが)子育てしやすい制度や環境・文化は重要だ。しかし、働く女性は子育てママだけではない。子育てが終わった女性も、結婚前の20代30代の独身女性も数多い。そのような女性たちのことが、働き方改革の議論ではすっぽりと抜け落ちている。
子育て支援や、子育てしやすい働き方改革が急務であることはわかる。僕も異論を挟むつもりはない。しかし、女性問題を語るときに、なぜいつも「女性は子どもとのセット」で語られるのか。女性問題の議論においても、常に「多様性」ということが語られるが、子どもを産まない、あるいは結婚していない女性のことはいつも無視される。
NPOの世界でも同様だ。昨年の熊本地震の際には全国各地から数多くのNPOやNGOが支援活動を行なった。高齢者や障害者支援はもちろん、子どもの支援活動を行なっていた団体も数多かった。子育てママの支援を行なっていた団体もいくつもあった。しかし、地元・熊本の女性団体スタッフが証言したことだが、20代の若い女性に対する支援は一切、何もなかったという。
ちなみに、こうした被災地支援の現場では、活動内容に合わせて「子ども」「マイナリティ」など12の分野に分類されているが、当初は「女性」の項目がなかった。そのことを指摘したら、しばらくして「子ども・女性」という分類になっていた。どこまでいっても、女性は子どもとセットでしか語られないのだ。