若者の社会貢献熱が冷めたのは、そういうことなのだ。いつの時代も、若者は自分たちの力で社会を変えようとする。そして、社会を変える「武器」を得た時に、熱狂的なムーブメントを生む。60年代の学生運動やフラワームーブメントもそう。80年代前後の日本では、文化の力で社会を変えようとキャンパスブームが起きた。90年代は世界的なインターネットブームで、これはシリコンバレーの若者たちによる社会変革の運動だった。だから、世界を変えるために活動してきたスティーブ・ジョブズがカリスマになった。そして2000年代後半、ソーシャルビジネスが若者たちの武器になった。ハーバード大学ビジネススクールでも社会起業家コースが一番人気となり、教育支援NPOの「Teach for America」が就職人気ナンバーワンになり、日本でも多くの学生がソーシャルビジネスを立ち上げた。CSRをやりたくて大企業に就職した学生も多かった。彼らはたんに、世の中のために良いことをしたかったわけではない。ソーシャルビジネスというものが、社会を変えるための自分たちの「武器」になると直感し、そのことで社会を変えようとしたのだ。

 しかし、彼らは挫折した。青春の蹉跌だ。かつての学生運動が浅間山荘事件で崩壊し、一気に収束してしまったように、社会貢献のムーブメントも終焉に向かおうとしている。そうなってしまったこの責任は、やはり社会貢献業界全体にある。前述したとおり、ほとんどのNPOは社会のために良いことしかしようとしない。もちろんそのことが悪いとは言わないが、そこに「社会をどうすれば変えられるのか?」という視点がなければ、「良いこと」が自分の価値観において良いことでしかない「独善」に陥ってしまう。具体的な例は差し控えるが(わざわざ個別攻撃して敵を作りたくないので)、その独善とは「かわいそうな人たちを救う」という視点で弱者を救済することしか考えていない状態を指す。「どうすれば弱者を強者にできるのか」という視点が少ないのだ。

 弱者を強者にするという意味では、あるNPOが知的障害者の絵をヨーロッパに紹介したケースがある。知的障害者の描いた独創的な絵が、アートの本場・ヨーロッパで受けて、1枚50万円の値段がつくようになったという。これは、知的障害者を単なる弱者ではなく、ユニークな絵を描く天才という強者に変えた素晴らしい事例だ。このNPOは「障害者は社会的弱者だ」という世の中の価値観を変えたと言える。しかし、このような発想のNPOはまだまだ少ない。

 独善という意味では、CSR業界も同様だ。この業界の人たちは神学論争が大好きで、少し前までは「CSRとCSVはどう違う?」という論争ばかり繰り広げていた。そして、彼らの最近の主要テーマは、2016年に国連が採択した「持続可能な開発目標(SDGs)」だ。もちろん、CSVやSDGsを巡る論議が悪いとは言わない。だがCSVもSDGsも、一般の生活者にはまったく関心のないテーマである。だからこそ、CSRというものをいったい何のためにやっているのかと考えた時に、「社会の変革に結びつかないCSRに何の意味があるのか」と僕は思う。高等遊民の皆さんは形而上学的CSR論争をやっていれば毎日が楽しいのかもしれないが、残念ながらそれでは大衆はついてこない。もちろん若者もついてこない。若者や大衆がついてこない運動は成功しない。

 CSRがたんなる神学論争に陥るのは、そもそも「CSRとは革命思想である」という認識が欠けているからだ。革命とは階級闘争のことだが、CSRで言うマルチステークホルダーとは、本質的に支配層である資本階級(およびその手先の経営者)と被支配層である労働者階級の融合のことであって、フランス革命で市民が人権を得たとか、アメリカの公民権運動で黒人が公民権を得たということに匹敵する革命なのだが、それを企業とか資本主義の論理という旧体制の中で実現しようという、いわば自己矛盾を孕んだものである。だからCSRは難しい。