ヘッドフォンを耳に当てて再生ボタンを押すと、目の前の会議室の風景が一変したような錯覚に陥った。まるで8年前に他界したマイケル・ジャクソンが、全盛期の姿で生き生きと目の前50センチメートルの所でレコーディングをしているかのようだ。
マイケルの細かな息遣いや、バンドの演奏の繊細なストリングスの余韻、曲の間のフィンガースナップが、あたかも自分の耳の横で繰り広げられているとしか思えないリアルな音で響いた。初めての体験だった。
ソニーが2016年10月に発売したウォークマンの最高級モデル、NW-WM1Zは、あらゆる意味で“型破り”な製品だ。
片手で持つと手が若干震える重量の455グラム。本体価格30万円、専用ヘッドフォンを合わせると50万円という高価格。そして、スマートフォン全盛のこの時代に「音楽しか聴けない」という単機能だ。
だが、圧倒的な音の良さへの反響は凄まじく、オーディオマニアの熱い支持のみならず、オーディオに関心がない若い女性がその場で“衝動買い”することも多い。仕様設計とプロジェクト全体を統括した寺井孝夫は、音と音楽に魅了された人生を歩んできた。
中学時代からのオーディオ好き。高校でバンドを組み、社会人になってからも専門学校に通ったり音楽事務所に顔を出したりと、30歳まではプロのベーシストとして生計を立てることも考えていた。
大学では音響工学を専攻し、音楽を作ることと、音楽を聴くことの両方に携われる仕事を目指した。音響専業メーカーを経てソニーに中途入社。2000年からウォークマンの開発に携わる。ウォークマンは学生時代から、親や親戚に何台も買ってもらっては大切にしてきた、憧れの製品であった。
ブルートゥースを使ったウォークマンなど先進的な製品を世に送る中、寺井の頭にいつもあったのは「いい音とは何か」という、根源的な問いだった。