しかし高校野球になると、中学とは桁外れに違う練習量についていけなくなる。大きな変化は、軟式球から硬式球への変化だった。時には顔すれすれに石ほどの硬さの豪速球が飛んでくるが、寺田の足では踏ん張りがきかずにとっさの対応ができない。監督からは、「マネージャーやスコアラーをやらないか」と勧められたが、選手にこだわっていた寺田は、逃げるように硬式野球部を辞めたという。

 その後、軟式障害者野球へ移籍するも、もっと野球に取り組みたいという思いから高校3年のときに足の手術を受けた。その後、1日10時間以上のリハビリ生活を3ヵ月送り、劇的に歩けるところまで回復した。

 だが、それまでだった。いくら足にメスを入れたところで、走ることまではできなかったのだ。「走れるようになって大学野球でもう一度硬式野球部に入るんだとワクワクしていたので、ショックでしたね」と当時の心情を吐露する。

拒否していた車イスを受け入れ
笑いに変えようと吉本興業へ

 その後は両親の元を離れ、関西の大学に進学したが「腐っていた」という。「健常者に負けないでやれると自負していたはずなのに…」。ろくに授業も出席せず、パチンコや麻雀に明け暮れた。心配した両親は家族会議を開き、そこで提示されたのが、自分の足で走ることを目指していた寺田が最も嫌がっていた、「車イス」という選択だった。

 自堕落な生活をしていた自責の念もあり、他にもう選択肢はなかった。ところが、仕方なく車イスに座ってみたところ「驚くほど景色が変わったんです。これまでは歩くことだけに一生懸命で、歩きながら人と話すなんて余裕もなかった。それが、車イスですべてが変わった。車イスは、シンデレラでいうかぼちゃの馬車。それ以来、ずっと僕は魔法にかかったままなのかも」と寺田は笑顔で語る。

 それまでは、家と大学の行き来だけだったのだが、自ら行ける場所が増えた。気持ちも前向きになり、人と話すようになると自然と友だちも増えていった。

 あれだけ嫌がっていた車イスに対しても、友人のある些細な一言がきっかけで違った見方ができるようになったという。

「あるとき、友人と『酒飲んだら飲酒運転ちゃうん?』『ちゃうわ!』というような新喜劇的なノリで盛り上がったんです。小さな友人単位のコミュニティだったけど、その空間に笑いを生むことができた。そういう気軽に笑い合える空間が、僕にとっては新鮮だったんです」(寺田)。