声をあげることのできない子どもは
通報がないと救えない

 01年に大阪池田小事件が起きたことを受けて全国で生活安全条例ができた時も「朝日新聞」は《市民の「警察化」危ぶむ声(監視する社会)》という連載をおこなっている。

 03年11月7日の記事では、警備員が小学校や幼稚園を見回る写真ともに、自治体が警察と連携して「安心・安全なまちづくり」を進める動きに警鐘を鳴らした。警察庁生活安全企画課の担当者が、「犯罪予防で最も効果があるのは『見知らぬ人がくればすぐ分かる』という街の姿だ」と話したのがよほどカンに障ったようで、「それは、相互監視社会ではないか」とつめよっている。

 なんて言うと「朝日新聞」にケチをつけているように聞こえるかもしれないが、個人的には共感はできなくても、こういう考え自体は尊重したいと思っている。70年前と時代が大きく変わっているなかで、なんでもかんでも治安維持法の再来にするのはさすがにどうかと思う時もあるが、とにもかくにも「権力の暴走」に目を光らせるという人たちも、この世の中には必要だからだ。

 ただ、ひとつだけいただけないのは、先の「東京新聞」のように「通報怖い」「監視社会が恐ろしい」があまりにも強くなりすぎて、子供のように自ら声をあげることができない「弱者」のSOSをかき消してしまっている点だ。

 たとえば、10年に奈良県で、両親から十分な食事を与えられなかった5歳男児が餓死をするという痛ましい事件があった。家族は近所と交流がなかったが、向かいのガソリンスタンドの店員たちは、両親が出かけるのをアパートの窓から見送る、やせこけた子どもの姿を何度も目にしていた。

 彼らは「虐待されているのでは」(読売新聞10年3月7日)と話していたが、その声が児童相談所や警察に届くことはなかった。マスコミにあふれている「監視社会」だ、「密告」だという論調にならされていて、「通報」することに抵抗があったからだ。