一瞬の爽快感だけではこころに何も残らない
昨年10月、故尾崎豊さんが倒れていた民家「尾崎ハウス」が閉鎖されました。
尾崎さんが亡くなった当時、私も尾崎さんのことについて雑誌や本に書いたことがあったことから、大学の授業で尾崎さんのことや思春期の暴走をテーマに話していた時期がありました。
学生に感想文を書かせていて感じたのは、10年ほど前から尾崎さんが表現した世界が理解できないという学生が増えてきたことです。
「盗んだバイクで走ったり、校舎の窓ガラスを壊して回るのは窃盗であり器物破損なので、こういうことをやる人の心情は理解できない」
確かにそれはそうかもしれません。学生たちにとっては「自分はバイクを盗んだことはないし、これからも盗もうとは思わない。だからこんな話を考えても仕方がない」ということなのでしょう。
しかし、バイクを盗んだことがなくても、窓ガラスを壊したことがなくても、なぜ彼はそういう行動をしたのか、また歌詞にまでして歌おうとしたのかと想像力を働かせることが必要なのではないでしょうか。
これは正解があるような問いではありません。仮に答えが出なかったとしても、考える過程でその人の人生を膨らませることになるのではないでしょうか。
本に書かれた平易で具体的な処方箋は「気休め」にはなります。これまで自分がやってきたことは間違っていないという「正当化」にもなります。しかし、それは一瞬の爽快感を得るだけのものかもしれません。
処方箋だけに頼って考えることを放棄し、他人の考えや行動を自分に置き換えて想像力を働かせることをやめてしまうと、自分が考えていたこと、自分が求めていたこと以上に世界は広がっていかないのです。
それでは、自分以外の人で構成されている社会に対する理解は、深まっていかないのではないでしょうか。