連鎖破綻に取り付け騒ぎまで発生の平成金融史と現在の「怖い共通項」

バブル前後の金融業界に何が起きた?
容疑者6人の足取りを追う

 誰が銀行を殺したのか──。容疑者は6人いる。かつて日本は未曽有の金融危機を経験した。数年の間に、金融機関がバタバタと倒れていき、取り付け騒ぎすら起こったのだ。

 ところがそんな状況でも、6人の容疑者の思惑が絡み合い、死にかけている銀行を目の前にしても治療は先延ばしにされた。バブル前夜から崩壊後まで、日本の金融業界に何が起こったのか。容疑者の足取りを追ってみよう。

外圧から金融緩和

狂乱マネーが
時限爆弾に

 危機の種はバブル経済の前から育ち始めていた。

 経常赤字解消のためドル高是正をもくろんだ米国は、1985年のプラザ合意で為替水準の修正を各国に迫る。その結果、日本は円高に誘導することを余儀なくされた。これが、後に日本の銀行が爆弾を抱え込む原因となったのだ。容疑者その1は「外圧」だ。

連鎖破綻に取り付け騒ぎまで発生の平成金融史と現在の「怖い共通項」円高を生んだプラザ合意 Photo:AFP=時事

 プラザ合意以降、急激な円高が進んだ結果、製造業を中心に「円高不況」に陥ってしまう。そこで、日本銀行(日銀)は、異例の金融緩和を実施、86年1月からおよそ1年間で5回も利下げをした。

 結果、日本はバブル経済に突入し、そのことが金融機関の行動や考え方を変えてしまった。つまり、容疑者その2は「日銀」だ。

 さて、ジャブジャブのカネを受け止めた銀行はどう動いたのか。容疑者その3は「銀行」自身だ。

 まず前提として、80年代前半から、日本企業は株や社債を発行するなど銀行に頼らない資金調達方法を増強していた。何もしなければ銀行の収益源は先細りになってしまう。

 そこで銀行のカネは、不動産や株式へ直接的、間接的に一気に流れていったのだ。企業や個人に土地や株式を買わせるために新しい金融商品が登場し、銀行は融資をしまくった。

 地価高騰の背景に銀行の融資があると問題視され、大蔵省(当時)も注意を促したが、銀行本体ではなくノンバンクを経由するなどして、マネー狂乱は続いた。

連鎖破綻に取り付け騒ぎまで発生の平成金融史と現在の「怖い共通項」

 日経平均株価は87年に2万円を超えると、88年に3万円を突破。さらに、土地の価格は80年代中ごろには東京で年間で50%も上昇、後半には地方にも飛び火し、90年には大阪や京都でも50%上昇した。

 恐ろしいのは、銀行も融資を受けた企業や個人も、株価と不動産価格が高値であり続けることを前提に行動していたことだ。

 企業や個人は値上がりした不動産を担保にさらに借り入れて新たな不動産を購入するばかりか、担保価値以上の融資すら横行していた。また、銀行の健全性の指標となる自己資本比率にさえ、株の含み益の算入が可能だった。

 つまり、カネの動きが逆流して株価と地価が下落すれば、企業も個人もカネを返せなくなり、銀行には不良債権がたまっていく構造が完成していたのだ。

 もちろん、一部には危機感はあった。実際、日銀は過熱する景気を抑えるために、利上げを図ろうとした。しかし、異常な値上がりを続ける株価や地価と異なり、物価は上昇していなかった。日銀は「物価の番人」と称されるだけに、それでは動きづらい。

 さらに、日銀の動きを察知した政治からは「景気に水を差すのか」との声も上がった。米国が日本に対して内需拡大を強く求めていたため、政治としては日銀の利上げは看過し難かったのだ。

 そうしているうちに、銀行の抱える爆弾は大きくなっていった。

 90年に入ると、いよいよ株価の暴落が始まる。なんと、最初の4カ月で1万円も下げたのだ。