ダイタンホールディングス 丹道夫会長ダイタンホールディングス 丹道夫会長 Photo by Kazutoshi Sumitomo

「薄給で人をこき使おうと思うなんて無理なこと」と言い切る、名代富士そばの創業者である丹道夫会長。その独自のマネジメント哲学には、豊富な人生経験も反映されている。生まれて間もなく実の父親を亡くし、愛情のない義父に育てられるなど苦労した経験もある。人を使うことの難しさを実感した丁稚奉公時代、4度の上京など、立ち食いそば一本にたどり着くまでの波乱万丈の人生とは?

義父から愛情なく育った幼少時代
安い給料で丁稚奉公の経験も

 私の生まれは名古屋だが、生まれてすぐに父が亡くなり、母は愛媛の実家に帰って、芸者をしながら育ててくれた。母は私にきちんとした教育を受けさせたいと考え、私が4歳の時に再婚。ところが、その相手がひどかった。

 義父は山林を所有したり、村人たちにお金を貸したりしていたから、比較的裕福だった。しかし、教養がない。金の亡者みたいな人で、人間性に乏しかった。粘りというものがなく短気で、村でも口やかましいのと厳しいので有名な人だった。

 母が再婚して間もなく、弟が生まれると、義父の私への態度も瞬く間に厳しくなる。年を取ってからの子どもだったから弟がかわいくて仕方がなかったのだろう。それで、途端に私が邪魔になってきて、使用人のように扱われるようになった。だから、義父からは、愛情というものを受けた記憶がない。

 中学を卒業すると、母のたっての希望もあり、西条南高校農業科(現西条農業高校)へ進学したが、結局1学期で中退。山道を10キロも下ったところに高校があり、通い切れなかったのだ。当時の自転車は安物でチェーンは外れるし、タイヤはパンクするし。下宿もしたけれどうまくいかなかった。そして、その後は八百屋に丁稚奉公へ出た。

 奉公先では競り落とした品物を自転車に積んで運んだり、お得意さん回りをしたりした。そうこうしているうちに、銭湯で知り合った油屋の社員さんから「うちで働かないか?」と声をかけられ、そこで働くようになる。ドラム缶に入れたガソリンや軽油を小型自動車やオートバイで運んで、漁師などに売る仕事だったが、人を使うというのはそんなにたやすいことじゃないというのを、そこで痛感した。