ヘンリー・ローレンス・ガント ヘンリー・ローレンス・ガントがマネジメントに残した財産はガント・チャートである。現代では一般的なプロジェクト管理ツールとして取り入れられており、1920年代における世界的に重要な発明であった。

 しかしチャートだけがガントの遺産ではない。彼はマネジメントの人間関係論の先駆けでもあり、企業の社会的責任について早くから説いた人物でもあった。

人生と業績

 ヘンリー・ガントは1861年にメリーランドの裕福な農場経営者の家庭に生まれた。しかし、独立戦争のあおりを受け、幼少の頃は貧困に苦しんだ時代もあった。彼はジョンズ・ホプキンス大学を卒業し、教職を経て1884年に製図工になり機械技師の資格を取得した。1887年から93年まではフィラデルフィアのミッドベールスチール社で働き、技師長(F・W・テイラー)のもとで副技師長を務め、その後、鋳物製造部の責任者になった。

 ガントとテイラーは最初の頃は折り合いがよく、ガントはテイラーの後を追ってシモンズ・ロリング社、ベスレヘムスチール社に転職した。1900年以降ガントはテイラーの思想よりも広範で、時には対立もするマネジメント論を展開し、優れたコンサルタントとして彼自身の名で知られるようになった。

 1917年にガントは政府の委嘱を受けてフランクフォード兵器廠とエマージェンシー輸送会社で戦時協力を行なった。彼は1919年に亡くなった。

思想のポイント

 ガントはテイラーの門弟で、科学的管理学派の推進者と見られることが多い。キャリア初期は、テイラーの影響とガント自身が持っていた問題解決能力から、科学的管理の立場から技術的な問題解決に取り組むことになった。テイラー同様、ガントも、仕事のあらゆる側面に科学的分析を適用することでのみ能率を生むことができ、偶発性を撲滅することでマネジメントは改善されると信じていた。

 ガントは4つの顕著な実績を残した。

(1)課業賞与制度
 ガントの課業賞与制度は1901年に、テイラーの出来高給制度の変形版として導入された。ガントの制度では、従業員は1日の仕事量(課業=タスク)を達成すれば日給に加えて賞与をもらうことができた。つまり、課業を達成できなくても日給はもらえた。これに対してテイラーの出来高給制度では、課業が達成できないとペナルティが科せられた。ガントの制度を導入した結果、作業者は能率向上技術を身につけながら生活費を稼ぐことができたので、生産性は2倍以上に跳ね上がることもしばしばだった。このことでガントは従業員の士気と彼らへの心配りがマネジメントの最重要項目の1つだということを確信し、やがて科学的管理の原理についてテイラーと袂を分かつようになった。