廣橋:そもそもその患者さんが怪しい治療に行ってしまったのは、もともとの主治医の先生と相性が悪く、コミュニケーションがうまくとれていなかったからでした。私が信頼している腫瘍内科の先生を紹介したら、とても安心され、信頼して治療もその後だいぶ長く頑張られました。
 ただ、そうは言っても、この患者さんの場合、抗がん剤は延命のための治療であり、どこかで効かなくなってしまうので、そのために将来に向けての準備という意味で緩和ケアのかかわりは必要です。その患者さんとは数か月に1回という感じで定期的に面談しました。体調管理のことや、将来具合が悪くなった時にどうする、どうしたいという話し合いをしたり、何を大切に今を生きているのかという話もしました。
 ご本人は緩和ケアの意味を理解していましたし、いずれは死を迎える状況であることをわかっていたので、終活に燃え始めていました。
 フラダンスがご趣味で、教室に通ってフラダンスの発表会に出ることが生きがいでした。治療している医師もそれをよくわかってくださっていて、治療のスケジュールもフラダンスに影響が出ないように工夫してくれて、治療だけでなく人生を支えてくださったんです。
 患者さんはご自分で遺影なども準備し始めました。それに対してご主人は「本人はいいんでしょうが、僕は少しショックです」と言うこともありました。でも、そういう奥さんを精一杯支えていました。
 そんな時期が2年くらい続きました。
 その後、具合が悪くなってきてしまい、いよいよ治療が効かなくなってきてしまいました。抗がん剤の治療も終了としました。
 以前から亡くなる時はこうしたいというのを決めていて、自分で動けなくなったら緩和ケア病棟に入院したい、最後が苦しくなるようだったら、いわゆる鎮静、眠るようにして苦しみをとり、穏やかに最期を迎えたい、ということをはっきりと言われていました。
 事前に人生の締めくくり方を医師と話し合っていて、そういった話をご主人ももちろん横でいつも一緒に聴いてメモしていました。時には子どもさんもいらして、最期をどう過ごすのか、特に、入院するかどうか、鎮静するかどうかという話をしました。
 いざそうなった時に選択肢を初めて出されると、皆さんすごく迷います。バタバタと物事も進むし、落ち着いて考えられないんですよ。
 いざその場に直面した時は心がすごく動揺しているので、本来の決め方ができない方が多いんです。その時にはご本人の意識が確認できなくなっていることもあります。
 この患者さんの場合は、はっきりとご自分の意思を明示されていたので、ご主人が「こういう状況になったので入院させてやりたい、妻も自分でそう決めてずっと言っていたから、僕もそれがいいと思う」ということで緩和ケア病棟に入院しました。
 入院した時はご本人も、「ようやくここまできました。最後先生のところで穏やかに終わることができると思っているから安心です」と言われて、その後穏やかに過ごされていました。
 遺影まで病室に持ってきて、準備万端です、といった感じでした。ご主人は微妙な感じでしたが。でも、「ご本人の思うようにやってやりたい、それが一番いいだろう」と。
 最終的には呼吸が苦しくなってこられたんです。モルヒネなどで苦しさをとる治療は続けていましたが、ご本人もそろそろ起きて話しているのがつらいというので、以前からお話ししていた眠ることも考えましょうかという話をすると、「そうしたい」と。ご主人も「前々からそう話をしていたから、これで鎮静でも僕は後悔しません」と。
 そして、眠ってもらうような治療に切り替え、数日後に亡くなられました。
 最後はフラダンスの衣装に着替えてお帰りになりました。
 大事なのは、治療を支えるのも緩和ケアでしたし、治療しながらでも人生で大事なことであるフラダンスを踊ることができていましたし、亡くなる時に悔いのない準備もできていました。最後を過ごす場の意思決定や鎮静をどうするかという意思決定も事前にちゃんとご本人にできていたので、ご家族も迷うことがありませんでした。
 ご主人もお子さんもいい終わり方ができてよかったと言ってくださいました。その後もこちらで定期的に開いている遺族会というものにも参加してくれて、そういったお話を聞かせてくださったり、お手紙をくださったりして、よかったなと思いました。私の中ではとても印象深い患者さんです。